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外山2001「研究するということ」 [論文時評]

外山 政子 2001 「研究するということ -旧石器時代の「捏造」事件について-」『季刊 道具学』第2号:39-42.

明日で、10周年である。

「こうした事件を発生させ得るだけの素地が考古学という学問そのものと、学会を取り囲む環境の中に見え隠れしていたことは疑いのない所である。決して個人の素質の問題とだけに片づけられない、構造的な問題があるだろう。」(39.)

10年という月日を経過して、「考古学という学問そのものと、学会を取り囲む環境」はどれほど変化があっただろうか。「構造的な問題」が、どれだけ解明されただろうか。
例えば、縄紋石器を対象としてなされていた「前期旧石器」の「編年」という研究手法自体は、どのような検討が加えられてきただろうか。そして「発見主義」という風潮は。
あるいは「協会図書」を巡る一連の騒動でも明らかにされた「学会を取り囲む環境」は、いかほどに改善されてきただろうか。

「先日、埋蔵文化財調査者に対しては「資格」を作るべきではないかという検討会が開かれたとの新聞報道があった。「そんなに遺構が分かりにくいのか」「そんなにひどい状況なのか」という発言と共に「調査精度が悪くても誰にも迷惑がかかるわけでもない」という発言があったという。思わず目を疑った。心肝寒からしめる発言と言わねばならない。やりなおせない実験に立ち会うはずの現場で、歴史を解明するためのデーターの精度を問われないとしたら、考古学も歴史学も学問としての立場は砂上の楼閣に他ならない。こうした発言がぼろっとでてくる事態にこそ「考古学」のおかれている悲惨な状況が露呈している。こうした意識の低下こそが、今回の捏造事件を引き起こしたと言えるだろう。いったい、今何が起こっているのか自覚のないままに、漫然と流されていることのなんと多いことか。捏造を疑われるすべての遺跡と遺物についての検証は、考古学界が真剣に解明に取り組んで行くことであろうが、なるべく傷を浅くしたいという暗黙の意志があるとすると元の木阿弥であろう。
戦わなかった者として、この事件を真の学問のあり方と学問への姿勢に対する警鐘として受け止めたい。」(42.)

検証のための特別委員会が作成した最終報告書の結論は、「批判精神を成長させることが何よりも大事である」というものであった(春成秀爾2003「前・中期旧石器問題の解析」『前・中期旧石器問題の検証』:599.)

最近の一連の騒動を通過して感じるのは、「日本考古学」はこの10年間でどれほど「批判精神」を成長させることができただろうかということに尽きる。

「「生きる」という行為は否応なしに、自己と他者および世界に対する「肯定」を、その前提に含んでしまわざるを得ない。現実への、生物的次元での巨きな「肯定」なしには、言うまでもなく肉体の「生」は成り立つまい。だが、この世界が善ならざるものである以上―誤てる、変革されねばならないものである以上、人はどうしても人としての主体において、それらを「批判」し、「否定」し尽くさねばならない。そしてそれこそが「精神」の仕事であると、私は考えている。
「肉体」が肯定なしには成り立ち得ないものである以上、「精神」には「否定する力」が不可欠だ。そして私は「批判精神」こそが「精神」本来の姿であると、断言して憚らない。「生きる」とは、少なくとも精神にとって「生きる」とは、ある意味で「批判すること」「批判しつづけること」「批判しつづけていること」にほかならない。」(山口 泉1995『テレビと戦う』:255.)

外山2001の後ろに掲載されている山口昌伴2001「報道の名を騙る興行師たち」:43-44.という文章も、2000年10月22日から11月5日にかけての「空白の15日間」ならぬ「泳がせの15日間」におけるマスコミの示した行動規範、中でも10月29日報道記事の在り様について、辛辣かつ的確な指摘がなされた批判精神溢れるものである。


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