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考古学的還元(第6回準備会報告) [セミナー]

【発題】
佐藤啓介氏 「《遺跡》の価値?―美学から見た遺跡問題、倫理学から見た遺跡問題」
         1.アートと考古学
         2.《遺跡》と美的価値
         3.排除される死の臭い

遠部慎ほか2009「現代アートと考古学 第5回「犬島時間」参加記」『考古学研究』55-4に対する異論、すなわち「なぜアートイベントという場に「いかにも考古学」という形でしか参加できなかったのか?」という問題提起から、<遺跡>問題に切り込む。

「《遺跡》問題は、美的価値から考える余地がある。」
「なぜ《遺跡》問題を考古学の占有物にするのか?」という強烈な問いかけである。

そして「考古学的還元」という考え方。

様々な行為が繰り広げられ、それに応じた様々な痕跡が様々な形で記されている<場>。
それが<遺跡>である。
そうした複雑多岐な<遺跡>を私たちはある特定の見方に従って切り取り、提示する。いや、そうせざるを得ないのだ。しかし本当にそうなのだろうか?
折り重なり積み重なる<遺跡>を「編年」という名前の作業を通して区分して、最も顕著な時代/時期を取り出して復元図を描き、「遺跡公園」なるものを作り上げる。
しかしそこには、特定の時代/時間に属する風景/景観のみが描かれ、構造物が再現されるという誰もが暗黙の前提としている構図がある。復元された時代/風景以外は表現しようがないとして排除される。
「復元」という行為に必然的に伴う「排他性の暴力」。

「考古学的還元とは、その場の時間を、復元・発掘されたある特定の時間層へと「固定」させ、同時に、それ以外の時間性を排除する志向」をいう。

考古資料の特性とは何か。
それは重層的な「時間経験」であり、「かつてあったがいまはない」という「痕跡」に代表される「物質経験」をリアルにビビッドに示すことにあるのではないか、という核心的な提言。

私はさらに完成された形を望ましいと考える志向性のようなものも「考古学的還元」に含まれているような気がする。部分より全体を、断片より完全さを求める。しかし考古資料というのは、破片であること(fragmentality)が本来的な特性ではないか(【2005-12-20】など参照)。故に「接合」という考古学独自の回路が開かれている訳である。
ちょっとした破片から見事な石膏模型を作り上げてしまう還元力の強靭さ。

あちこちにある「遺跡公園」が、なぜ「いまいち」なのか?
それは、出来るだけ正確な姿を、それも一番目立つある特定の時期を完全な形で表現し、それを永続化させるべく固定したいという、私たちの無意識の欲望に起因しているのではないか。
しかし<遺跡>というのは、決してそのようなものではないはずである。
幾つもの時間痕跡が折り重なり、あるものはあるものに切られ削られ不完全であり、それらが相互に関連しあっている。仮に完全な形があったとしても、時間を経るに従って劣化していくのは避けられない。それが経年変化という「自然」であり、いつまでたっても「ピカピカ」とか「変らない」というのは「不自然」ではないか。
「遺跡公園」には、なぜ壊れかけた復元住居がないのか? 勿論安全上の問題とか色々あるのは重々承知の上だが。
現代の修復技術者が照明器具を倒して傷つけた古墳壁画の傷跡も、上書きされた現代の「痕跡」なのではないか。

現代アートの一番大きな目的・使命は、私たちの常識・当たり前と考えている事柄を転倒させることにある。「美とはこういうものだ」といった私たちの考え方を変容させること。ベンヤミン、ブレヒト、ブロッホの系譜に連なる「異化作用」という働き。
当たり前の<遺跡>を当たり前に提示するのではなく、私たちの「時間経験」を変容させるような<遺跡>の示し方はないものだろうか。
当たり前の<遺物>を当たり前に展示するのではなく、私たちの「物質経験」を変容させるような<遺物>の示し方はないものだろうか。

掘りあがり固められた「穴ぼこ」を示すのではなく、ただの黒いシミとしか思えなかったものが掘られて竪穴住居跡としての姿形を現していく過程を示す展示、さらに掘りあがった住居跡が再び風化し崩れ埋もれて平らな地面に戻っていく有様を示す展示。
古い遠い昔の「ものたち」をただ並べるのではなく、今の私たちの身の回りにあふれる様々な「ものたち」とつながり一連の系譜として感じられるような「ものたち」の連鎖する様相を示す展示。

こうしたことを集中的に討議した密度濃い3時間。
キーワードは、「分からなさ」と「価値」である。
私たちは、余りにもあれが分かったとかこれが明らかになったといったことばかりを語ってきたような気がする。しかしその背後には見ることも語ることもできない膨大な「分からなさ」が控えているはずである。「分からない」ということは、まるで自分の無能さ、無力さを告白するようなもので気おくれするものだ。
しかし「分からない」ということを見据えた謙虚さは、あれも分かった、これも分かったのオンパレードよりも遥かに実態に近いのではないだろうか。

そして私たちは<遺跡>の価値を余りにも狭く、すなわち「考古学的な意味」に限定して捉えてきたのではないだろうか。
<遺跡>という場が示す深くて広い意味合いをどれだけ救い上げてきただろうか。

例えば<遺跡>とされる場において、今までいったいどれだけの人たちが生まれ死んできたのだろうか。
死が排除され、健康な人々の暮らしぶりだけが描かれる健康的な<遺跡>。
先史や古代の人々だけが描かれる「断絶史観」に基づく偏った<遺跡>の数々。

私たちはその場で生きそして死んだあらゆる時代の人々の生と死に向かい合い、彼ら彼女らの声を等しく聞き取る努力をすべきではないか。
どのような声を価値あるものとして取り上げて再現しているのか、自らの「政治的行為」を意識しなければならない。

参考資料として配布された佐藤啓介2009「物質と時間 ―痕跡としての物質性」『美術フォーラム21』第20号(醍醐書房、2009年11月刊行予定)も重要。


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