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崖の上の [総論]

「愛蔵版映像集 考古学の魅力を徹底特集
 ロマンと感動・・・壮大な古代史紀行へ」

先月21日の朝日新聞10面の全面を使った「ユーキャン」という会社のキャッチコピーである。
以下、そのリード文。

「考古学の世界とその魅力を徹底特集した、画期的映像集です。
 通常の旅ではめぐりきれない、全国350ヵ所以上もの遺跡を収録。
 国宝や重要文化財、発掘当事の記録など、貴重映像も充実。
 最近の大発見をはじめ、研究最前線の成果も盛り込まれています。
 わかりやすい解説と豊富な映像で、考古学が楽しく理解できます。」

ということで、第1巻「特別編 考古学の楽しみ」から第12巻「文字と考古学」まで、2大付録として特別解説書「森浩一が語る日本の古代」と特製収納ケースがついて、「月々わずか2980円×13回払い」、「送料無料でお届けします。」

これが、2009年の日本における考古学という学問の一般的な(あるいは商業的な)イメージなのであろう。しかし、何かが違う。

述べられるのは旧石器から平安時代まで、先史や古代だけが考古学の対象とされている、言い換えれば中世・近世・近現代が視野から欠落している考え方を、「断絶史観」という。 象徴的には「先史中心主義」とも。

「考古学の魅力」がそのまま「壮大な古代史紀行」に結びついているが、「考古学の魅力」というのは本当にそれだけなのだろうか。そこから抜け落ちているものが有りはしないか。それは決して「ユーキャン」だけに認められるのではないようだ。 

「本書は、考古学専攻の学生諸君はもとより、考古学に関心のある多くの方々が、考古学を知り学ぶうえでの大事で基礎的な知識と情報が得られるための「道筋」と「鍵」を100のキーワードにまとめ、学習と知識の整理に役立つことを目的としている。」
「4章 時代と文化の流れを追う
旧石器時代の文化 縄文時代の文化 弥生時代の文化 古墳時代の文化」
安蒜政雄編1997『考古学キーワード』有斐閣双書(2002改訂版)

「多くの遺跡や古墳での地道な発掘調査・研究の現場から、苦労のすえの過去との感動的な出会いや新たな疑問などを説きつつ、貴重な写真・図版を交えて現代考古学のエッセンスを提示する。」
「旧石器時代の文化 縄文時代の文化 弥生時代の文化 古墳時代 宮殿と寺院の建立」
 (付章 日本歴史・考古学略年表」は「794 平安京に都を遷す」にて断絶)
泉森 皎編2004『日本考古学を学ぶ人のために』世界思想社

「通説や定説を見直し、旧石器時代から平安時代までの最新の研究成果に基づく方法と論点を提示する、考古学入門の基本講座。」
「旧石器時代 縄文時代 弥生時代 古墳時代 歴史時代」
広瀬和雄編2007『考古学の基礎知識』角川選書

「本書は、考古学という学問のすべてを、入門者にわかりやすい記述によって、全十二章、百五十項目で構成したものである。」
「ⅩⅡ 遺跡紹介
旧石器時代 縄文時代 弥生時代 続縄文時代・オホーツク文化期 古墳時代」
小林達雄編2007『考古学ハンドブック』新書館

最近出版された一般向け概説書が「軒並み」というのは、どうしたことだろう。
これは贔屓目なのかもしれないが、中世以降も近世そして近現代までがしっかりと記述された、すなわち「断絶史観」に捕らわれていない考古学の一般概説書は、鈴木公雄1997『考古学がわかる事典』(日本実業出版社)ぐらいしか思い当たらないのだが。

「断絶史観」に捕らわれているのは、概説書に限らない。
2004年「ちくまプリマーブックス」から『考古学と古代史の間』と題されて出版された書籍が、最近『考古学と古代史のあいだ』と改題されて「ちくま学芸文庫」から改めて出版された。形態を変えて再版されるぐらいだから、それ相応の需要があるものと推察される。しかし、私には書名の意味がすぐには理解できなかった。
考古学の一部は、古代史の一部を形成しているのに、その考古学と古代史の間にどうやって「あいだ」が生じるのだろうか、と。例えば有名な論文「考古学と民俗学の間」(加藤晋平・宇田川洋1973『物質文化』第21号)ならば、よく理解できるのだが。

件の書籍を実際に読んでみれば、何のことはない。そこで述べられている「考古学」はあくまでも「古代の考古学」であり、「古代史」は「古代の文献史学」のことなのである。だからこれは言わば「古代における考古学と文献史学のあいだ」という意味なのだ。
なんということだろう。

至るところに、断絶あり。そして断崖あり。
崖の上にいる人々には、自らが崖の上にいるという自覚もないのかもしれない。
崖の上にいる人々に、崖の上にいるということを伝えるのは、困難極まりない仕事である。


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きのこ採り

「好古学」という言葉をどこかでみたような気がします。たとえば人間を研究するという視点に立つならば、取り組みが違うかもしれません。
by きのこ採り (2009-10-16 00:07) 

五十嵐彰(伊皿木蟻化)

念のために申し添えておくと、近世・近現代を先史・古代と全く同じに扱うようにと主張しているのではないのです。考古学はすなわち先史・古代を扱うのであると無条件に考えている人々が、近世・近現代の考古学が存在しないかの如くみなしているということ、そしてそのことの問題性をはっきりと指摘する言説が皆無である(全ての人々が受容している?)現状について、これは問題であると指摘しているのです。
そしてもう一つ述べると、先週の記事でも指摘したように、考古学という学問の目的の一つに「生活の復原」を挙げるならば、あるいは人と物とが構成する世界を明らかにするといった目的を掲げるならば、そこに特定時を境界とする断絶、過去を遡る度合いに応じた守備範囲の限定は意味をなさないだろうということなのです。
by 五十嵐彰(伊皿木蟻化) (2009-10-16 19:55) 

きのこ採り

ほとんどの方々にはわかっていることなんだと思います。しかし興味がなかったり給料をもらうためにたずさわっていることなので、流れのままにしてあるのではないでしょうか。面倒が増えたり、雇われの給料や待遇が危機に瀕するなどということは、月の周回軌道を遠回りしてでも避けるのです。

ところで時代を経るごとに道具や社会や人間の身体も変わり、人類全体が持つ情報も増える一方ですが、それに比べて人間の精神はどうでしょうか。先人の経験や知恵を得て、より豊かで寛容になってきているのでしょうか。それとも平原を蛇行する川のような、あるいはいつの間にやら地面に吸い込まれてしまっているのでしょうか。
by きのこ採り (2009-10-17 03:41) 

五十嵐彰(伊皿木蟻化)

「真理はあなたたちを自由にする。」
こうした言葉が弥生時代に述べられていたということは、驚くべきことです。
by 五十嵐彰(伊皿木蟻化) (2009-10-17 08:20) 

きのこ採り

弥生時代に述べられていたということを、驚かない人はどれほどいるでしょうか。この言葉に共感する人が多ければ、今日起きている問題のほとんどは解決しているのかもしれません。
by きのこ採り (2009-10-17 23:25) 

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