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帰るべき場所 [近現代考古学]

生き物は、死ぬとき、生まれた場所に帰るという。
モノもそうではないか。
無理やり(非合法的に)引き剥がされたモノは、本来あるべき場所に戻ろうとする。

『朝鮮新報』の記事。
「文化財返還問題(上)」(2008-10-3:朝鮮史から民族を考える 25)
「文化財返還問題(下)」(2008-10-6:朝鮮史から民族を考える 26)

考えるべきは、そして行動すべきは、ここで具体的に名前が挙げられた東京大学・東京芸術大学・京都大学・九州大学・東京国立博物館の各組織に属する研究者だけが担う問題ではない。
そして問題は、考古学だけに限られる訳でもない。人類学も、建築史学も、美術史学も、いや日本の近代が総体として推し進めた国家戦略の結果であり、現在に生きる私たち全てが担うべき責任なのである。

同じような論点は、本年2月にも記した【08-02-21】。

故郷に帰ろうとするのは、そして返さなければならないのは、モノだけではない。
無理やり連れてこられて、異国の地にて、意志に反して、無念の死を迎えなければならなかった無数の人びともまた。

「文化財返還問題」は、また「大量虐殺地問題」【06-05-25・26】と同じ視点から捉えなければならない。
日本の近現代考古学は、この二つの問題を見据えることが切実に、草が生い茂る忘れられた地からのうめきとして、埃をかぶった収蔵庫からの無言の語りかけとして、私たちに求められている。

しかし日本の近現代考古学に関して現在流通している言説(例えば『季刊 考古学』第72号 特集 近・現代の考古学(2000)、あるいは『近現代考古学の射程 -今なぜ近現代を語るのか-』(2005)など)に、この二つの問題を見据える視点(射程)を見出すことはできない。
「意図的な忘却」と言われても、仕方がない。

「過去の日本考古学の犯罪は、こんにちになっても決して許されないし、僕達はその負債を負わねばならない。僕達は、この親の負債を返すべく具体的準備をすすめたいと思う。この事は、実に帝国主義本国人民として、被侵略国人民に対する当然のつぐないであり、そしてまた、最も重大な仕事の一つでもあるだろう。略奪文物は、近い将来必ずや各国人民に返還されねばならない。」(岡本俊朗1985「略奪文物を各国人民に返還しよう!」『見晴台のおっちゃん奮闘期 -日本考古学の変革と実践的精神-』:127-8.)

「自分の故郷をさがすことは、世界史のなかの現在を生きる自分の位置を考えることなのだろう。」(キム チョンミ1996『故郷の世界史 -解放のインターナショナリズム-』現代企画室:263.)


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アヨアン・イゴカー

>無理やり(非合法的に)引き剥がされたモノは、本来あるべき場所に戻ろうとする。
返還すべきで、このような議論はどんどん進められる必要があります。
一つだけ心配なのは、その文化財をしっかりと保存できる環境があるかと言うことです。イスラムの原理主義者たちによって破壊された岸壁の石仏像は、あまりに惨たらしく、狂信的な人間の愚かさを証明してみせました。その文化財の価値を正当に判断できる人々であれば、本来あった場所に返還すべきです。そして、その返還の是非については、国境を越えた有識者の合意作りが必要だと思います。(残念ながら、文化水準が決して高くないと言わざるをえない国もあり、自国の文化財を密売している輩がいるのに、それを阻止できないという事実があるようですから。)
by アヨアン・イゴカー (2008-10-23 10:03) 

五十嵐彰(伊皿木蟻化)

日本が例えば国宝の彩色壁画を「しっかりと保存できる環境」にあったかは置いといても、略奪文化財の返還に関して、全国的な学会が特別委員会を設置して調査をするとか、総会において分科会を開き声明を出すといったことが一切なされていない状態では、「残念ながら、文化水準が決して高くないと言わざるをえない」ようです。
また自国の戦没兵士については莫大な国費を投じて遺骨を収集しているにも関わらず、そうした兵士らによって虐殺された「大量埋葬地(万人抗)」の発掘調査に関しては我関せずで素知らぬ顔をしているのも、「残念ながら、文化水準が決して高くないと言わざるをえない」ようです。
by 五十嵐彰(伊皿木蟻化) (2008-10-25 15:26) 

アヨアン・イゴカー

>兵士らによって虐殺された「大量埋葬地(万人抗)」の発掘調査に関しては我関せずで素知らぬ顔をしているのも、「残念ながら、文化水準が決して高くないと言わざるをえない」ようです。

このような事実は知りませんでした。有難うございます。これでは、確かに仰るように、文化水準が高いとは申せません。
文化財はその本来あった場所から移動された時点で、文化財以外の別の意味も持ってしまいます。花嫁ももしサビニ族のように略奪されると、「略奪された花嫁」と言う、別の意義が付加されます。本来の意味以外の意味が、どれだけ文化財を歪曲するかはすぐには申し上げられませんが。 
by アヨアン・イゴカー (2008-10-25 18:53) 

五十嵐彰(伊皿木蟻化)

価値あるもの、欲しいものを奪ってきたのが「略奪文化財」だとすると、危険なもの、やばいものを放り込んで素知らぬ顔をしてきたのが「大量埋葬地」と「遺棄化学兵器」【07-07-19】です。
共に、帰るべき場所である故郷を求めて声を発し続けています。

by 五十嵐彰(伊皿木蟻化) (2008-10-25 21:00) 

anoguchi

>一つだけ心配なのは、その文化財をしっかりと保存できる環境があるかと言うことです。イスラムの原理主義者たちによって破壊された岸壁の石仏像は、あまりに惨たらしく、狂信的な人間の愚かさを証明してみせました。

アフガニスタンやパキスタンにおいてタリバーンの出身母体でもあるパシュトゥーン民族の考古学・美術史研究者が少なからず存在して、各地においてUNESCOなどと連携しながら仏教文化遺跡の保存修復や博物館の運営に努力されています。日本からも資金援助が出ています(バーミヤーンだけでなく)。
またそうした遺跡や博物館を訪れるパシュトゥーン民族の人々も少なくありません。そんな彼らも、宗教思想信条的にはタリバーンに近しいものを抱いていますが、文化財保護への理解と破壊行為への反対意思も同時に持っています。
バーミヤーンの石仏破壊や、昨年もパキスタン北西部で起こった遺跡破壊は確かに愚行ですが、それを宗教思想(時には民族性)と結びつけて一方向的に報道することにも問題があると思います。
またアフガニスタンやパキスタンにおける考古・美術史資料の密売についても、現地においては関与する現地の人間と同時に、それを成り立たせる市場の存在(香港・シンガポールを経由した日本・中国方面が現在のところ最大の取引先だと言われました)が問題視されています。
アメリカによる武力行使だけでなく、広く「西側先進諸国」のメディア・スクラムに晒されている現地の研究者や行政担当者は、自国民に対して自らの取り組みの意義を説明できない立場に追い込まれているともいえるのです。
by anoguchi (2008-10-26 18:36) 

pensiero

>無理やり(非合法的に)引き剥がされたモノは、本来あるべき場所に戻ろうとする。

この意見には私も至極同意なのですが、それだからこそ、「考古学という学問的営為によって、[地中から]無理やり(非合法的に)引き剥がされたあらゆるもの」にもまた、土中や墳墓という「本来あるべき場所に戻ろうとする」権利を、等しく返さなければいけなくなるのではないでしょうか。

今生きている人々(or過去から連続した人々)のものだから返さなければいけない/もう死んで過ぎ去った人たちのものだから返さなくていい、という「占有権の分割」としての考古学的原暴力を抜きに、帰るべき場所の倫理を論じることはできないと思います。

もちろん常識的に考えれば、「発掘は『合法的』である」という言葉によって、ものたちの権利は否定されるのでしょうが、それは同時にものたちにたいする「意図的な忘却」に感じられます。
by pensiero (2008-10-26 19:52) 

五十嵐彰(伊皿木蟻化)

pensieroさんの考古学的原暴力論、死者たちの権利を生者である私たちが占有してよいのか、については、太田さんの言われる語る権利は私たちにあるのか、と同様に、常に心に刻んでおかなければならない論点だと思います。
特にアメリカにおけるNAGPRA(アメリカ先住民墓地保護返還法)を契機に人骨を焦点としてバーミリオン協定が締結されましたし、それに伴う副葬品も同様の扱いを受けるに至っています。ものたちの語る権利、それを私たちは「代弁する」と表現してきましたが、そのことの正当性、妥当性が問われるようになっています。
人類学と同様、考古学という学問の根幹に関わる問題提起です。
by 五十嵐彰(伊皿木蟻化) (2008-10-26 20:20) 

ジョンダラー

「奪う側」の論理はどのような場合でも似たり寄ったりですが、多くが自己正当化のようにも聞こえます。それがたとえ他国の文化財であれ、墳墓からの副葬品であれ。
視点を変えてレベルが下がりますが、県で調査した出土品を地元市町村教委に返していく動きが前々からあると思います。あくまで「地元での保管環境が整っている」という前提つきで。しかし、その実は県でも収蔵庫が飽和状態で返したいし、決して収蔵状況がよいとはいえないのが実情でしょうし、地元教委にしても、収蔵場所がないから還して要らん、という声もチラホラ。ここには地域住民の声は不在ですが。
文化財は本来、あるべき場所にあるのが理想です。それが本来の保護施策です。「引き剥がされたモノ」は一時的な、特異な状況下にあったと捉えられないでしょうか?戦利品であれ、学術・事前調査であれ、自然災害による避難であれ。異常はつねに正常へ戻していく働きかけが必要だと思いますが。どのような理由であれ、昔の人が思いをこめた「そこにあるモノ」を引き剥がしたままでは、自然と心が痛むでしょう。研究者のモラルにはそうした時空を越えた声にも真摯に耳を傾けることも必要ではないでしょうか?
by ジョンダラー (2008-10-27 22:06) 

元気

失礼致します。
全くの素人ですが、人として長く生きておりますので考えることもございます。

>無理やり(非合法的に)引き剥がされたモノは、本来あるべき場所に戻ろうとする

モノは、モノであって、モノ以下でもモノ以上でもありません。
意味を見い出し智恵を求めるのは人間の都合です。
過去から意思を推し量り、未来につなげようと考えることも人の都合であるように思います。

>自国の戦没兵士については莫大な国費を投じて遺骨を収集しているにも関わらず

硫黄島の坑内には、まだ沢山の方が埋もれたままです。
米軍は、その坑にセメントを流し、滑走路を築き、日本本土に向けて爆撃機を発進させて行ったのです。
多くの米軍兵も命を落とされました。
ですが、一人残らず母国に返されたそうです。
硫黄島で亡くなられた日本兵(ほとんどは徴用された民間人です)のうち、回収されたのは一部です。
13000人もの遺骨が未回収のまま硫黄島に残されたままです。

>虐殺された「大量埋葬地(万人抗)」の発掘調査に関しては我関せずで素知らぬ顔をしている

無いものの証明は出来ません。
あるという証明の方が先です。
無いものの発掘調査が出来ないことは自明の理です。

さて、五十嵐様は、靖国神社の遊就館を訪れたことはおありでしょうか?
私は、先日、晩秋の頃に、初めて行かせていただきました。
そこで、私は、自分の考えの浅はかさに衝撃を受けました。
大東亜戦争、大東亜共栄圏。
それは、本当に、植民地政策が当然であった欧米列強にとってどれほど許しがたいことだったか。
日本人は、褒められこそすれ、恥じるべきことはしていなかったのです。
同じ有色人種、アジアとして、欧米列強に搾取されない道を歩もうとしていたのです。
ですから、だからこそ、東京裁判の判決、占領政策、統制が計られ、
戦後教育の(日本軍を悪とする)徹底が計られたのです。

それは、その後調べた小野田氏の足跡、言動からも明らかだと思います。
その言動には、整合性があり、戦前の日本人の姿が見てとれるからです。

考古学は、古い(もの言わぬ)モノの声を聞く仕事であると思います。
声高に非難される声、声高に賠償を求める声、声高に返還を求める声…
声高な者の声には、(声高ゆえに)信憑性があるように錯覚されるかも知れません。
ですが、(一方的な偏った人の)声に惑わされることなく、静かな声を発掘し、聞き取ることも必要と存じます。
ウソも繰り返されれば真実に聞こえ、ウソも声高に唱えれば真実に聞こえるものです。
ですが、真実は、(人の)声の大きさだけでなく、土や建造物、残された記録から検証するものです。
安易に惑わせるることのないよう、ご自分で調べられることを願っております。
(残念ながら、アドレスが貼れませんでしたので、ご自分でお調べ願います)

五十嵐様のプロフィールから。
「現在に抵抗すること、つまり過去を能動的なものにし、外に出現させながら、ついに何か新しいものが生じ、考えることがたえず思考に到達するように」
「何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある」
その通りと存じます。

by 元気 (2008-12-18 22:53) 

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