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穴問題(1) [痕跡研究]

いったい「穴」とは、どのような存在なのだろうか?
私たちは、地面に掘られた様々な「穴」を「遺構」と称して、日々その形を確認し、堆積した層の重なりを観察し、埋められた土を堀り上げ、写真を撮って、図面を作って報告することを生業としている。
ならば「穴」とは、どのような存在なのかということについて考えなければならないのは、誰よりも考古学者なのではないか。 しかし・・・

「穴は回転するか」という疑問を起点に、そもそも「穴とはいかなる対象なのか」という定義をめぐって、いくつもの仮説が提示されていく。

1:穴周り(hole-lining) [Lewis & Lewis 1970]
空白を形作っている物体の部分を「穴周り」として、穴を物体の一種と考える。
私も最初は、「遺構」とくに地面を掘り窪めた「マイナス遺構」は、地面を掘り窪める「マイナス面」で構成されると単純に考えていた。しかし事は、そう単純ではないことが徐々に明らかにされる。
「穴周り説の諸問題の多くは、その定義が穴の全体を捉えておらず、まさに穴の周りという、穴のいわば「外縁部」のみにしか関わっていないことに由来すると考えられる。」(53.)

2:サイト(Site) [Grenon & Smith 2004]
サイトとは、この場合は「遺跡」の意味ではなく、移動可能な実体的対象としての「場所」を意味する。そして穴を境界と媒質の複合体と考えて穴の全体性を捉える。しかし、サイト説も穴周り説と同様に、一種の物理主義、還元主義であることが難点とされる。
「穴周り説、サイト説という、物体の一種として穴を規定しようとする物理主義的立場が見落としてしまう穴の本質的側面とは、穴が一種の無であり、欠如だということである。つまり、そこに何もないということが穴を穴たらしめる重要な要素である。」(58.)

そして・・・

3:否定的部分(negative part) [Hoffman & Richards 1984]
穴とは穴を擁する物体すなわちホスト全体の特殊な部分、すなわち「否定的」部分であるとする考え方である。穴とは、否定的部分という非物質的な要素を本質とする物体というわけである。何やら判ったようで判らないような、しかし物理主義を乗り越えるために穴という対象のネガティブな側面へ着目したという点で一歩前進という感じである。

4:欠如体(privation) [Hoffman & Rosenkranz 1994]
否定的部分は、否定性という穴の本質を、全体の一部分とする点で、まだ中途半端であった。ここでは、具体的対象の欠如を「欠如体」として、そのことのみによって穴を定義する。欠如体の事例として、物体の欠如としての穴以外に、音の欠如としての静寂(silence)、光の欠如としての影(shadow)が挙げられる。何かが無いということが、そのことの本質であることが前面に打ち出されている。そして何かがないということは、逆にその何かに依存しているという「依存性」が重要な本質であることが示されている。

確かにそうだな、と思わされる。しかし、穴が静寂や影と同じ仲間だとは、考えもしなかった。何せ考古学では、音や静寂、さらには光や影などは、視野に入っていないものばかりだからだ。
しかし、一方で本当にそうなのか?という思いもある。
ということで、まずは、穴と静寂の違いが説明される。

静寂、すなわち音の欠如とは、継続的な状態であり、「できごと」「過程」といった「生起体(occurrent)」の一種である。それに対して穴、すなわち物体のような実体的な対象の欠如は「持続体(continuant)」とも言うべきものである、とする(73.)。このへんはややこしいが、「私の生涯」という生起体(過程)における現在は「時間的部分」であるのに対して、「私」という持続体(実体)においては「時間的部分」などは存在しようがない、と説明される。

さらに依存対象すなわち静寂の場合は音であるが、穴や影の場合は依存対象物であるものや光と同時的に存在しうるかどうかが両者を区別する基準となる、という(74.)。確かに音が欠如している静寂は、音とは共存し得ないというより相互背反的であるのが特質である。それに対して、穴や影は依存対象と同時に存在しない限り存在し得ないだろう。

穴を「否定的部分」と考えるかそれとも「欠如体」と捉えるかの根本的な差異は、結局穴を実体的対象と考えるかそれとも時空的状態の一種と捉えるかの違いに結びつくようだ。それは欠如体として同様に思われた静寂を過程的対象として、実体的対象である穴や影とは区別することである。

そして議論は、いよいよ佳境に入っていく。


タグ:欠如体
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コメント 1

アヨアン・イゴカー

>否定的部分
>欠如体
このような解釈もあるでしょうが、私としては遺跡・遺構における「穴」の解釈は別です。それは枘(ほぞ)と枘穴の関係でしかありません。一方の不在は他方の存在を否定します。コンセントやプラグでもオスとメスと言う表現をします。二つで一つの機能を果たしています。柱が立つためには、それを受け入れる穴がなければなりません。決して、欠如体でも否定的部分でもないと思います。
音楽に於いても、それが音楽である限り、無音も音です。決して、欠如なのではありません。意図された無音なのです。無音は否定的要素どころか、不可欠の要素であります。
by アヨアン・イゴカー (2008-05-25 12:59) 

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