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穴問題(2) [痕跡研究]

5:依存的非物質体(dependent immaterial body) [Casati & Varzi 1999]
「穴とは、物体の補空間(complement)のうち、その物体に外的に連結している(externally connected)充填可能な(fillable)部分である。」(76.)
「非物質」的であると同時に「体」という空間的延長性と全体的持続性を備えた実体的な形。
それは、「補空間」という否定的・欠如的性質、すなわち存在論的依存性を有し、さらに「外的連結」という外縁部としての物体(表面)の重要性、最後に「充填可能」という「場所」としての性格をもって規定されるものである。

まさに
「穴とは「存在」と「無」の境界に位置すると同時に、「もの」と「こと」の狭間にも位置している存在者だと言えるだろう。」(75.)

至言である。

「否定的部分説や欠如体説と同様、物体の補空間という否定的な性質を穴の本質として捉えながら、他方で「充填可能性」という積極的な機能を穴に見出すことによって、より実在的に穴を規定しようとするところに、依存的非物質体説の最大の特徴がある。」(79.)

「穴とは、空間という非物質を素材とする持続体なのである。そして空間が、何らかの属性によって性質づけられ得るという性質(qualifiability, modifiability)を持っているとすれば、そうした性質に付随する傾向性のひとつとして、充填可能性を位置づけられることになる。」(84.)

「空間」という非物質を素材とするのが、穴なのだという。これも素直に理解することがなかなか困難である。なぜなら、私たちの普通イメージする「素材」というのは、粘土とか石とか金属といった何らかの「物質」であり、物質でないもの、「非物質」を素材とすることができるのか、それも「空間」という属性を素材であるというのはどのようなことなのか。
穴が何らかの実在性を有する、すなわち物質的なものを素材としているかのように想定してしまうのは、穴を擁する物体をイメージしてしまうからである。穴とは、そうしたホストではなく、その「補空間」であり、その補空間を充填するという存在の仕方、存在論的依存性にこそ、その本質があるのである。

「穴とは、物体の補空間のうち、その物体に外的に連結している充填可能な部分である。
まず第一に確認すべきは、この定義によって穴が基本的に「物体の補空間」として規定されることが、穴の非物質性(および依存性)の根底的由来だということである。そして物体の補空間の境界自体は、穴に属するのではなく、物体に属する。すなわち、物体が占める部分は閉空間であるのに対し、その補空間は開空間となる。物体とその補空間とは、それ自体は物体に属する物体表面を境界として共有するという関係によって接触している。このような関係が「外的連結」であり、物体表面は、物体にとっては「内的境界(internal boundary)」であるのに対し、補空間にとっては「外的境界(external boundary)」となる。
そしてこのように、穴は「外的境界」によってその同一性を保持するということが、穴の非物質性の本質だと考えられる。まず第一に、穴の境界である物体表面は穴そのものに属さない以上、物体が何でできていようが、その表面の形状の連続性さえ保たれていれば、穴としての通時的同一性が保たれると考えられる。」(88.)

そして筆者が最後に提出するのが、
6:依存的形相体(dependent formal body)
である。
「非物質体」というやや胡散臭い概念に代えて、「形相体」という考え方である。

「彼らは穴を空間という非物質的な素材をもつ持続的対象として捉えていたのに対し、いまの立場は、物質的であれ、非物質的であれ、そもそもいかなる素材も持たないということを穴の本質として捉えていることである。したがった、「依存的非物質体(immaterial body)説」との相違を強調するとすれば、それは「依存的非資料体(matterless body)説」ともいうべき立場である。これを肯定形で言い換えれば、穴はその質料としての何らかの素材によって通時的同一性を保持するのではなく、その形相としての外的環境によって通時的同一性を保持するという意味で、「依存的形相体(formal body)説」「依存的輪郭体(contour body)説」ともいうべき立場であることになる。」(96.)

「それは依存的対象であるために、純然たる実体ではないが、全体的な通時的同一性(耐続性を保持するという点で「実体的」対象だと言える。そして、穴は、外的境界というそれ自身には属さない「輪郭」によってその通時的同一性を保証されると同時に、無であり、空であるという「非質料性」によって充填可能性というその本質的機能を有するという二重の意味で、まさに「形相的」対象である。それは、そうした機能によって実在する対象ではあるが、まさにそうした機能によってのみ実在性を保証され、その依存性、非質料性によって、かぎりなく「無」に近く、また「事」に近い位置にある「存在―物」だとも言える。」(98.)

これが筆者(加地氏)の穴問題に関するひとまずの結論である。
こうした結論を受け入れるには、「形相」という哲学的概念を十分に理解する必要があるが、そのためにも私は、筆者が明確に説明することのなかった欠如体としての「穴」と「影」の違いを明らかにする必要があるのではと感じる。


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アヨアン・イゴカー

>「空間」という非物質を素材とするのが、穴なのだという。

この部分は納得しがたい表現だと思います。「非物質を素材とする」これは言葉の遊びではないでしょうか。素材である為には物質でなければなりません。

>まさに「形相的」対象である。それは、そうした機能によって実在する対象ではあるが、まさにそうした機能によってのみ実在性を保証され、その依存性、非質料性によって、かぎりなく「無」に近く、また「事」に近い位置にある「存在―物」だとも言える。

依存性、非質料性によって、限りなく「無」に近く、また「事」に近い位置にある・・この「事」に近い位置にある・・部分は正しい考察だと思います。しかし、依存性と言う表現は不正確です。遺構があり、穴ある場合、腐食して消滅してしまった柱も穴に依存して立つことができるのであり、どちらかが一方的に依存している訳ではありません。夫婦で、女性が男性に依存していうなどと言うことができないのと同じです。

私は、物理学の質量保存の法則が正しいと思っています。あるものの存在は別の物の不在、不存在を意味します。ピラミッドを作るために岩石を切り出してくれば、その岩山の岩は不在となり、ピラミッドの建設される場所に岩が厳然と存在します。岩山にある岩はピラミッドにある岩と同時に、別々の場所で存在することができません。二択しかありません。あれかこれかしか。ケーキを食べた後に、その同じケーキをもう一度食べることが出来ない理屈です。岩を切り出された穴は、かつて岩が存在した証明であり、それは「あった、存在した」と言う「事」です。

門外漢が、勝手な思いつきで書き込んでおりますが、御気に触ったらお許し下さい。
by アヨアン・イゴカー (2008-05-29 22:54) 

五十嵐彰(伊皿木蟻化)

もちろん加地氏も、カサティらの非物質体説に対して、その非物質性が哲学的フロギストンあるいはエーテルのような虚構的対象になりかねないと、疑念を呈しています。そしてその代替案として提出されたのが、形相体説というわけです。形相というからには、当然アリストテレスの第1哲学の基礎概念である形相(エイドス)と質料(ヒュレ)を踏まえているわけで、「穴は質料としての素材ではなく、形相としての外的環境」として、同じ欠如体である影に引き付けて「非質料的対象」として穴を理解するわけです。
by 五十嵐彰(伊皿木蟻化) (2008-05-31 21:04) 

アヨアン・イゴカー

ご回答有難うございました。

>同じ「欠如体である影」
この表現は気になります。ある物体が存在します。そこに光が当たります。この場合、光は付加物にすぎません。影は光という付加物の存在しない部分であると思います。
光がない洞窟のなかにある物は平等に存在します。影などなく。そこにカンテラを持ち込んだ探険家が光で照らし出すことによって、光に当たるもの、当たらないものがでるに過ぎないと思います。

五十嵐先生は、影と穴とはどのように区別さるのでしょう?そして、第2考古学では、この考えをどのように応用発展させて、遺跡、遺構などを研究し、まとめられるのでしょう?興味深い点です。

by アヨアン・イゴカー (2008-05-31 23:39) 

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