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穴問題(3) [痕跡研究]

光の欠如としての「影」と物体の欠如としての「穴」は、どこがどのように同じで、どこがどのように違うのか。
まず「移動可能性」、すなわち動くということについて考えてみよう。
影は動く。当たり前である。だから「日時計」というものが存在するのだ。
そしてこれも当たり前のことだが、影が動くということは、影を発生させている光源が動くということである。日時計は、太陽の周期運動(実は地球の自転)なしには有り得ない。

地面の光が当たる部分<陽>と当たらない部分<陰>が、時間の経過と共に変化する。

そして「影が動く」という事象についても、二種類の場合を区別しなければならないということに気がつく。
一つは、光源が動くことによって、「影が動く」場合。
もう一つは、光源は動かず、影を作る遮蔽物が動くことによって、「影が動く」場合。
影について考えるとは、影を形作る「光源」と「遮蔽物」の相互関係を考えるということに他ならない。

それでは、問題。
「月の満ち欠け」は?

影の移動性を考えるということは、すなわち光の移動性を考えるということに他ならないことに気付く。
この場合の光の移動性とは、光源自体の移動ではなく、光が当たる場所の移動である。
サーチライト、懐中電灯、灯台、そして光波測距儀。

光源が動けば、光が当たる場所も動く。
光自体(光源)が動く場合と、光が当たる場所が動く場合を区別しなければならない。

かつて「<遺跡>移動説(補足)」という題名で<遺跡>問題について考えた時にも、広松―朝永ラインによる光の移動性に関する説明から大きな示唆を受けた(【2005-09-26】)。今から3年も前のことである。
その時の結論は、「<遺跡>は素粒子と同様に独立自存的な存在ではなく、「場の状態」とでも言うべき存在である」というものであった。

どういうことかと言うと、
<もの>(この場合は光)の移動性について考える時に、大きく二つの場合を区別しなければならない、ということである。
第1は、単一の電球が左から右へと実体的に移動する場合である。
第2は、直線状に配列した電球が左から右へと順次点滅することによって、あたかも光自体が移動したかのように思われる場合である。

光の欠如体としての「影の移動」とは、言わば後者のケース、素粒子や<遺跡>と同様な「場の状態変化」とでもいうべきではないだろうか。
穴は、外的境界によって通時的同一性を保持し、一個の穴という計量可能性をも有する。しかし影は、光源と遮蔽物という二重の関係性に規定されると共に、どこからどこまでが一個の影であるかという通時的同一性や計量可能性が、穴に比べて弱いように思われる。
光源の光が弱まれば、いつの間にか周囲の闇に溶け込んでしまう影。
土地痕跡が微かであれば、認識され得ない<遺跡>。
そう、影は穴ぼこである「遺構」よりも、穴ぼこの集合体である<遺跡>に近いのである。

結論:
   穴は影に比べて、実体的な強度が高い。
   そして
   <遺跡>は、大地に埋もれた私たちの「影」である。


タグ:穴と影
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コメント 1

アヨアン・イゴカー

>穴は影に比べて、実体的な強度が高い。
  そして
  <遺跡>は、大地に埋もれた私たちの「影」である

私見では、
「影は「現象」にすぎず実体がない。
穴は遺構の証拠として、厳然と存在し実体がある。」
です。何となれば、既に申し上げましたように、暗闇のなかでは影は存在しません。蜃気楼は実体があるでしょうか。蜃気楼は物理的「現象」に過ぎないと思います。影や蜃気楼はintangibleであるのに対して、遺構はtactileで蝕知できるものであります。
by アヨアン・イゴカー (2008-06-08 14:29) 

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