SSブログ

#9:20070509 [セミナー]

「竪穴建物の周提」と題して、来月発売の『考古学ジャーナル』第559号:31-37.のゲラ刷りを基にした発表をしていただいた。 ところが、導入部の「はじめに」で紹介されていた「登呂問題」で早速引っ掛かってしまった。すなわち私たちに周知の「登呂の周提」なるものが、実は調査担当者の指示によって作られていた! そして、実はそのことは私たちにとっては「周知の事実」なのである!との指摘である。
教科書にもその写真が掲載され強烈なイメージが刷り込まれていたあのドーナツ状の構築物は、調査担当者のある想定の下に作られたものだった。
しかし、本当にそのことが「周知」すなわち世の人たちに遍く知られているのだろうか。
知らなかったのは、私だけなのだろうか。
少なくとも「登呂遺跡」で検索した1万件ほどのネット上の記事には、それらしき記載は見当たらないようだ。

「弥生時代像の確立を目指して
第2次大戦中の空白の時代を経て、戦後には日本歴史学の大きな転換がありました。神話的世界への回避を否定し、歴史的現実を直視する歴史学への転換だとも考えられます。考古学が積み上げて来た業績が新しい歴史学の構築のために組み込まれる時代が訪れました。日本考古学協会の設立直後に、協会の「登呂遺跡調査特別委員会」の手によって空前の規模で行なわれた静岡県登呂遺跡の発掘調査は、水田跡、竪穴住居群、数多くの木製遺物などの出土によって、農業集落としての弥生社会の一端が明らかにされました。この調査は、当時、国民的な期待がかけられていたように感じたものであります。」(金関 恕1998「民族国家形成の基盤」『日本考古学』第6号(特集 日本考古学の50年):31.)

神話的世界を否定し、歴史的現実を直視したはずの、そして新しい歴史学を構築したはずの、あの輝かしい登呂遺跡の発掘調査において、その最も代表的な遺構が「歴史的現実」に拠らずに発掘者の思い込みによって作られていたという。なんということだろう。日本考古学が再出発をした記念すべき発掘調査において既に、50年後に痛切なしっぺ返しを受ける種が蒔かれていたとは!

その背景には、当時の劣悪な調査環境や調査技術が大きく作用していたことは、容易に想像されるが、なおその根幹に「国民的な期待がかけられていたように感じた」と述懐される調査者ひいては彼・彼女らを取り巻く「日本国民」のある種の心理的傾向があったように思われる。

そして、そのことが表面的には取り上げられることなく、一部の研究者の間でのみ周知の事柄とされてきたということの意味を考える。もし本当の意味で、こうした事柄が、考古学という学問に胚胎する本質的な問題であるという認識が遍く共有化されていたとしたら、あの捏造問題もまた違った展開を示しえたように思われる。

そう言えば、私の中学1年の夏休みの自由研究は、「登呂遺跡の研究」だった。今から30年以上も前に、生まれて初めて一人旅をして、見知らぬ通りがかりの人に静岡駅から車に乗せてもらって訪ねた「登呂遺跡」。こうした形で再会するとは。


nice!(0)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

nice! 0

コメント 1

五十嵐彰

次回(2AS#10:20070613)は、一昨年のブログ記事(2005-10-24「考古学性とは(4)」)を題材に自由な討議を行なう予定です。
by 五十嵐彰 (2007-05-11 08:30) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0