SSブログ

檜垣2006 [論文時評]

檜垣 立哉 2006 「身体の何が構築されるのか -バトラー的構築主義への一考察-」
『現代思想』第34巻 第12号(10月臨時増刊 総特集 ジュディス・バトラー 触発する思想):108-115.

「バトラーの議論を一瞥したときに、何よりも際だつのは、その鋭い批判的舌鋒の華々しさである。ことにフェミニズムに関する従来の理論のほぼすべてを、反本質主義の徹底のなかで切り捨てていく小気味よさは、一種の爽快感すら抱かせる。ジェンダー概念の歴史的構築性の露呈はもちろんのこと、ジェンダーとセックスとを文化と自然という仕方で常識的に分割する発想も解体し、自然と描かれがちなセックスそのものまでも、ある種の構築の産物として見切っていく。それは、排除されたもののアイデンティティ概念に、その不在というかたちも含めて寄りかかりがちなフェミニズム思想のほぼすべてを捨て去って先に進むものである。」(108.)

何よりも本体である『ジェンダー・トラブル』を読むのが一番であるが、全体を概観するには本論が判りやすい。所載特集号の座談会冒頭で、その訳者である竹村和子氏が自らと母親との何気ない会話を紹介しているように、「予備知識は皆無」にも関わらず「やっぱりここまで言わなきゃ駄目なような気がする」のである。そして私にとってはいつ読んでも何度読んでも『ジェンダー・トラブル』は、『近現代・トラブル』なのである。

「女性性を、男性性という主体性から排除されたものとみなし、そこにアイデンティティを取り戻す立場を拒絶すること。女性性を、そもそもがアイデンティティが不在である領域と位置づけ、その特権性を描くことを拒絶すること。そして、女性と男性という区分そのものが廃棄された向こう側を単純に想定する性のユートピアを普遍的思考の復活だとして拒絶すること。このように、徹底したフェミニズム的思考への吟味を行うバトラーには、では、どのような方向性が残されているというのであろうか。
そこで重要になってくるのが、フーコーの議論へのある種の依拠である。ジェンダーはつねに新たに作られつづけるものであり、男性性や女性性は、いつもそれとして構築されている。権力とはこうした配分を果たす装置にほかならない。こうしたアイデアを、フーコーの議論は提起しているからだ。」(111.)

<遺跡>を囲い込み、非<遺跡>に依拠する立場を拒絶すること。<遺跡>と非<遺跡>の区分そのものを廃棄し、ユートピアを想定することを拒絶すること。果たして、その先にあるものは。
そこに至るまでには、多くのなされるべき事がある。しかし、なされるべき事をなすにあたっても、その先を見据えてなすことが肝要だ。
ジェンダーが文化的な区分、セックスが自然(生物)的な区分という自明視されている二項対立を退けること。遺物が動産的な区分、遺構が不動産的な区分という自明視されている二項対立を退けること。
男性/女性として画然と区分すること自身、異性愛体制が入り込んだ視線に基づくものである。<遺跡>/非<遺跡>と画然と区分すること自身、先史中心主義体制が入り込んだ視線に基づくものである。

書店において、様々な<遺跡>関連書籍が山積みになっているのは、どのような理由に基づくのだろうか?
セクシュアリティの装置がまさに発明されたものであるように、<遺跡>なる装置も現在の私たちの必要に応じて発明されたものなのである。

「その点で、言語の構築性が、たとえば少数者差別・民族差別・そしてそのラインで描かれる女性差別の議論と結びついて主張されることはよく理解できる。身体の自然性を解体することは、明白にポリティカルな意味をもっているからだ。」(113.)

そして、その点でも<遺跡>の自然性を解体することは、明白にポリティカルな意味をもっている。
「身体の物質性」を巡る問題が「他者」という主題に結びつくように、<遺跡>という「他者」の痕跡が重ね書き(パリンプセスト)されている場における物質性のパラドックスと向き合うことなくして、新たな考古学の可能性は開けてこないだろう。 


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0