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母岩識別研究の現状(続) [石器研究]

「まず、最初に、吉岡遺跡群の搬出入品リストをみておこう。区分されている36個体の「母岩別資料」は、類型A=7個体、類型B=9個体、類型C=20個体に類別できそうである(表2)」(安蒜2006「旧石器時代の集落構成と遺跡の連鎖」:p.72)

ということで、表2(p.73上段)に「吉岡遺跡群B区遺物群Ⅳ石器集中1の「母石別資料」(ママ)分類表」が掲載されている。

早速、作成元のデータ(「第6表 遺物群Ⅳ石器集中1の母岩別資料」(p.37)および「第9表 遺物群Ⅳの母岩別資料」(p.109)共に財団法人かながわ考古学財団2003.3『吉岡遺跡群Ⅹ』B区第2次調査(第一分冊 縄文時代初頭~旧石器時代、自然科学編)かながわ考古学財団 調査報告153)と比較検討してみる。

すると幾つかの事柄が明らかになる。

まず安蒜2006表2で採用されている「36個体の母岩別資料」というのは、実は表題にあるような「遺物群Ⅳ石器集中1」の母岩別資料ではない、ということである。
原データ第6表「石器集中1の母岩別資料」には、Ⅳ1からⅣ28およびⅣ38の計29母岩のリストが掲載されている。原報告では、「石器集中1の母岩別資料数」は29個体とされている。安蒜2006での「36個体」とは、ここから「磨石」の母岩別資料であるⅣ26・27を除き、原データ第9表「遺物群Ⅳの母岩別資料」に掲載されている「遺物群Ⅳ石器集中1」以外の単独出土資料9点(Ⅳ29~Ⅳ37)を加算したものである(29-2+9=36)。

なぜ「石器集中1」から200m以上も離れた場所から検出された単独出土資料をも組み込んであえて「石器集中1の母岩別資料」分析の対象としなくてはならないのだろうか?
それならば、「石器集中1」に隣接して調査された「第1次調査の旧石器時代B1層出土石器群」(かながわ考古学財団2003:第142図参照)を分析対象から外す理由は、何なのだろうか?

次に個別事例として、安蒜2006によって「類型B」とされている「Ⅳ22」という母岩別資料の原記載を検討してみよう。
「母岩別資料Ⅳ22(第67図)硬質頁岩。・・・本母岩別資料は彫器3、微細剥離を有す剥片1、剥片2点の合計6点(21.4g)からなり、接合個体Y11が含まれる。接合個体Y11は彫器31であり、1類+2類接合の個体である。本個体は彫器として利用されていたと考えられるが、彫刀面再生をおこなっており、彫刀面加撃の際、先行剥離の亀裂によって、分離した資料と考えられる。」(かながわ考古学財団2003:p.93)

すなわち「母岩別資料Ⅳ22」とは、1枚の加工剥片に対して「彫刀面打撃」と称する剥離を施した際の分離によって生じた破片資料の接合個体(Y11)および非接合資料で構成されているのである。剥片を素材とした二次調整加工によって生じた調整剥片(削片)を含む接合個体の存在によって、「類型B」とされている。
ならば、考えてみよう。例えば1点の「原石」から100点の剥片が剥離されて、100点の剥片を素材として100点の彫器が100箇所の<遺跡>で製作されたら、それぞれに100個の「類型B」が設定されて、それぞれに100点の「原石(新原料)」搬入が想定され・・・

「類型Bは、原石にはじまって、石核段階にとどまる石器作りであった。」
「類型Bは、原石の状態で、それぞれ搬入されており、・・・」
「類型Bは、まだ消費されてはいない原料(原石)が搬入され、それを遺跡内で半ばまで消費し、残り半分となった原料(石核)が搬出されている。」
「吉岡遺跡群の石器作りは、旧原料(類型Aの石核7点)3.5個と新原料(類型Bの原石9点)9個の合わせて12.5個の原料のもとではじまり、旧原料の全てを使いつくし、新原料の石核9点(原石4.5個)を残す状態で終わっている。」(安蒜2006:p.73・74)

「吉岡遺跡群」の原報告には、母岩別資料の信頼性そのものを揺るがす記載すら見られる。
「母岩別資料Ⅳ24(第68図)黒曜石。色調は透明であり、わずかに黒色のモヤが入る。石質に関しては、夾雑物はほとんど含まれず、良質である。和田鷹山産と推定されている(ただしナイフ形石器7は和田小深沢産と推定されているため、別母岩の可能性がある)。」(かながわ考古学財団2003:p.93・94)

可能性?
可能性は、母岩別資料分類が当てにならないか、黒曜岩産地推定が当てにならないか、さらにはどっちも当てにならないかのどれかしか有り得ない。


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