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江戸遺跡研究会会報 第104号 [拙文自評]

五十嵐2006b「港区No.149あるいは赤穂藩池田家・一関藩田村家屋敷跡について」『江戸遺跡研究会会報』第104号:2-8.(2006年2月21日、江戸遺跡研究会)

自分の文章を自分で批評するというのも変なもので、それを読まされる方はもっといやだなーとずっと思っていたのだが(例えば『季刊考古学』の「論文展望」)、以下穴埋め的にお許し願いたい。

昨年11月16日の例会(【05-11-18】参照)で配布した資料が、そのまま『会報』に転載された。会員ではないので、当の会報が出たことも知らず、本部のラックに乗っているのを目にして初めて知った。

発表のメインは、現在調査に携わっている内容のダイジェスト、すなわち第1考古学のプライマリーをプレゼンテーション・ソフトを使って示した。しかし、そこに至るには、やはり現在の最重要課題と考える<遺跡>問題、特に<遺跡>名称問題に触れずに済ますわけにはいかない。そこで、メインの前に「前口上」として当該地区に関する<遺跡>名称について、述べた。

すなわち行政単位ごとのナンバーシステムである「港区No.149」。「港区No.149」として規定されている範囲・平面形状は、現代<遺跡>としての意味しかもたないこと。
次に現行住居表示としての「新橋4丁目29番地点」。これまた、調査区を地図上で特定する機能しか有さないこと。
共に、考古学的研究対象としての空間名称としては相応しくなく、<遺跡>という述語の使用はためらわれる、というより避けなければならないのではないか。
すなわち、「港区No.149遺跡」ではなく、せめて「港区No.149」あるいは「港区No.149包蔵地」とすべきではないかという提言である。

では、考古学的な名称、<遺跡>としては、どのようなものが適当なのか。
近世については、特定のすなわち最も居住期間の長い所有者名を付けるという原則を適用すれば、「一関藩田村家上屋敷跡遺跡」。これも細部で多くの問題がある。田村家以前に拝領していた池田家の存在が表現されない点。田村家に限定しても一関藩以前は岩沼藩であったことが脱落してしまう点。なによりも、現在の調査要因によって規定されている考古学的な「調査区」形状が、対象としている当該期における「敷地」形状とたまたま一致している場合は良いとして、そうでない場合には(そうした事例の方が圧倒的多数を占めると思われるが)、すぐさま齟齬が生じてしまうという原理的な問題。

「鳥取藩 池田家 ・・・ 一、中屋敷 愛宕下 拝領年度不詳 分譲寛文四年十二月十五日 坪数三千四百四拾坪余 ・・・旧記ニ寛文九年六月廿八日此清水屋敷三千四百四拾坪余ト久保町田村右京大夫ノ屋敷と相對替云々。」(『東京市史稿』市街篇 第49編(1960)東京都:414)
「一関藩 田村家 ・・・ 一、上屋敷 愛宕下 相對替寛文九年六月廿八日 坪数三千四百四拾坪余 備藩邸考、此邸ヲ清水屋敷ト唱ヘシ由云々。寛文九年六月廿八日此屋敷三千四百四拾坪余ト久保町ノ田村右京大夫ノ屋敷ト相對替云々。」(同:368)

単独に存在する<遺跡>は、有りえない。
<遺跡>は常に平面的に空間的に横方向に連なり、垂直的に時間的に縦方向に連なっている。
1669年6月28日(旧暦)に江戸市中、芝愛宕下と呼ばれる場所の一角において居住者が移り変わったという記載。そこから立ち現われるのは、「相對替」という名の土地所有の変化に伴って、旧居住者の旧地から新地への移動と新居住者の旧地から新地への移動という時間と空間を斜めに横切る2本の斜線である。
そしてこの斜線は、常に等しい太さをもって描かれるとは限らず、途中での分岐、合流といった様々な変質を伴いながら、幾重にも交錯しながら、重ね書きされている。
その結果が、私達が<遺跡>と呼んでいるものである。

なお、昨晩ある人から「後口上」ではなく「切口上」ではないか、との指摘を受けた。お恥ずかしい限りである。謹んで訂正させて頂きたい。(田中・佐原1993:p.205参照)。


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