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山口2000「気になる道具たち 石器」 [捏造問題]

山口 昌伴 2000「気になる道具たち 石器」『道具学会 News』第13号:1.(2007『道具学への招待』道具学叢書001、企画・編集 道具学叢書委員会:172-173.に収録)

考古学の隣接学問である道具学会を牽引した研究者による捏造事件発覚直後のコメントである。

「…危惧すべきは考古学マニアの陥りがちな「石器」への偏執に似た轍が、道具学にもおおいにありうる、という事である。考古学界から広く一般に及ぶ「石器への偏執」という背景があったればこそ、根はマジメだった考古学徒が「神の手」を借りてしまった。そうした「学問の対象」への偏執の弊害が、学問そのものの体質に及ぶ事が、道具の学においてもおおいに危惧されるものである。」

「神の手」を借りるに至ったのは、「神の手」を「借りる」側の事情も多分に作用していたはずである。

「座散乱木を境に、明確に態度を変えた著名な研究者は多い。まず小林達雄・国学院大教授がいる。小林氏は星野などの調査にも参加したが、これを石器と認めず、判定に厳しい研究者として知られる。その小林氏は「座散乱木の第13, 15層各上面の遺物は立派な人工の石器です。しかも層位はキチンとしていて古い所から出る。ナイフ形石器以前の明確な文化」と折り紙をつける。加藤晋平・筑波大教授も態度を変えた1人だ。
杉原氏の弟子で、氏亡き後の明治大の旧石器研究をリードする立場の戸沢充則教授もまたそうであった。「座散乱木の古い石器は確か。やっと確実なものが出たな、というのが石器と遺跡を実見した時の印象です」という。座散乱木の画期的意義を、そこに改めて認識させられる思いだ。」(河合 信和1985「前期旧石器論争に決着はついたか」『科学朝日』第45巻 第8号(通巻第534号):21.)

「考古学マニア」に限らない専門の研究者に至るまで広く行き渡っている「石器への偏執」あるいは「土器への偏執」といった「遺物主義」あるいは「密着主義」は、20年の年月を経てどの程度、改善されただろうか?

「遺跡を発掘するとさまざまな遺物が発見される。それらの多くは当時の人々が製作し使用した道具の断片である。そこで考古学では、これらの遺物を分類して整理し、昔の人々の道具箱を復元しようとする。」(鈴木 公雄1997『考古学がわかる事典』:277.)

「遺物」と称されている様々な<もの>たちは、かつては生きて動いていた「道具」たちであった。それらが役割を終えて、過去から現在に至る過程で、壊れ、いくつもの破片・断片といった部分に分かたれ、それがたまたま発掘されることで地中から取り出されて「遺物」と名付けられているのである。
過去の全体的な「道具」から、現在の部分的な「遺物」へ。
ならば、断片である遺物を研究する考古学にとって、部分から全体を見通すためにも道具を研究する道具学は不可欠な存在なのではないか?

「考古学は広く人類の物心両面の生活史学である。埋蔵物の発掘という手法は独特に精緻化しているので専門分野として生活史学のうちに埋蔵物に依る領域を立てることは一向さしつかえない。
だが、それが生活史学の一環である事を忘れてはなるまい。道具学は物心両面の生活の学を道具の視座から見透かしていこうとする立場である。その意味で、石器学に堕し易い考古学が物質的遺留品に依る生活史学に立ちなおるには、考古学が道具学の一環であることを自認すべきだと、私は思っている。」

「単に過去の痕跡を集めて繋ぎ合わせるだけではない、私たちを取り囲む痕跡に満ちた世界を<場>と<もの>という相互関係から読み解く営み、そこには常に解き明かす私たち自身を考える意識が欠かせない。私たちはどのような痕跡をどのように区分して、どのような名前を与えて、どのように取り扱っているのか。」(五十嵐2018「鉛筆で紙に線を引く」『現代思想』第46巻 第13号:112.)


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