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田中2019『開発と考古学』 [全方位書評]

田中 義昭 2019 『開発と考古学 -市ヶ尾横穴群・三殿台遺跡・稲荷前古墳群の時代-』新泉社

「私は1935年10月30日にこの世に生を受けた。いまは80歳の大台を超え、後期高齢者晩期の真最中にある。「おいくつですか」と聞かれるのがはなはだ鬱陶しいが、ここまで生きてこられた幸運への感謝の気持ちも日増しに強くなっている。この人生が跡形もなく消え失せるのは何とも残念無念に思われて仕方がない。
私の愚にも付かないような足取り、傍から見ればそこらに転がっている一市井人の人生に過ぎないだろう。だが、わが身にとっては掛け替えのない命の歴史である。兼ねてから、印象深い過ぎし日の生き様をきちんと書き残しておきたいと念願していた。ようやく喜寿を過ぎてから発奮し、筆を起こした。」(35.)

私の父親は1930年生まれなので、ほぼ親世代である。
筆者が1953年の大学入学から1981年に転職で離京するまでのほぼ30年、20代から40代の神奈川での疾風怒濤(シュトゥルム・ウント・ドランク)の時代である。

今は亡き恩師の若かりし頃も描かれている。
「私が衛門谷に足を運んだときには、すでに市ヶ尾B群の調査を終えた明大班や國學院大班が調査に入り、他に中村君が新たに参加した町田公雄君(のちの鈴木公雄)らの高校生と組んで一班を編成して加わっていた。私はA群中もっとも小規模の8号を掘るように指示された。中村君の班はA群では最大規模の5号の調査に取り組んでいた。相棒の町田君は慶応大付属高校考古学クラブのリーダーであり、南堀貝塚の調査でも活躍していた。経験の浅い私などとはくらべものにならない。大学生顔負けのやり手で、現場やミーティングにおけるその鋭い観察力と的を射た指摘には舌を巻いた。」(129.)
やはり…
そのほか、私などは名前だけを存じ上げるビッグネームたちの若かりし頃が描かれている。
その中心は、和島 誠一(1909-1971)、岡本 勇(1930-1997)、甘粕 健(1930-2012)の3氏である。

「一時間かけて渋谷に着く。なにしろ昼食をとっていないので腹ペコだ。そこで蕎麦屋の戸を開けてなかに入ろうとしたら、店員に追い出された。見れば、みんな泥の付いた作業着にスコップという出で立ちである。矢部さんに至ってはズボンが裂けて脛丸出しだ。これでは路上生活者とまちがえられても仕方がない。やむなく電車に乗り帰宅することにしたが、他の乗客の迷惑を考えて車両の隅のほうに。もっともひどい姿の矢部さんをみんなで囲うようにして乗客の視線をさえぎりながら高田馬場まで送った。」(146.)

1956年の大晦日のことである。着替えを持参して着替えるなどということは考えもしなかった、今では考えられない時代である。

「三殿台遺跡、それは和島考古学の記念碑だ。遺跡の絶大な魅力もさることながら、先生の学問への情熱と飽くなき探求心、学者としての社会的責任の堅持、そしてなによりも人間をわけ隔てしない大衆主義に無名、無数かつ多種多様の人々が共感し、支えた。原始・古代集落址全掘の偉業はこのたぐいまれなコラボレーションが生み出した壮大なドラマだった。私は一人の演技者に過ぎないが、考古学の道を歩むことについて心中深く期するところがあった。」(227.)

三殿台から港北ニュータウン、大塚・歳勝土、そして文全協へ。

「70年7月11日、東京は芝増上寺の一室で最後の準備委員会が開かれる。雨の中参集した委員たちは意気軒高だった。そして翌12日午前、雨も上がった豊島区池袋東の厚生会館で結成大会が開かれ、文化財保存全国協議会(文全協)が誕生した。代表委員には岡本勇さんと芝田文雄さん(伊場遺跡の保存運動で大活躍の元新聞記者)の二人、事務局長は八面六臂の準備活動で奔走した甘粕健さんが選出された。常任委員は在京と関西の若手の研究者らが名を連ね、各地の活動家が全国委員として参画することになる。私は全国委員の一人となった。(中略)黒田先生の講演中、司会席にいた私の手元に「情勢が緊迫しています。進行を早めてください」と書かれた紙切れが届く。甘粕さんからだった。会場の外には、全国組織発足に反対する人たちが講演会を阻止しようと実力行動を繰り広げていた。彼らは、午前中の結成大会にも押しかけて大会運営委員ともみ合いになり、会場玄関のガラス戸を壊すなどの妨害行為に出ていた。私は、たいへん失礼とは思ったが、講演中の黒田先生にメモを渡し、状況を理解願う。先生は動じない。きっちり語られて演壇を降りた。川名先生も同じだった。無事、終了。」(355-6.)

当然のことながら、半年前に起きた1969年10月25日の「平博事件」については一言も触れられていない。
何故か?
この辺りの事情(なぜ情勢が緊迫したのか)を私のような後学の者が知るには、当事者から直接聞くか、遺された僅かな文献(例えば『全国通信』など)を読み解いて当時の状況を理解するしかない。いわゆる「メディア・リテラシー」というやつである。

「1970年代後半、日本考古学協会は一時の混乱期を乗り越え、新しい民主的な学術団体として前進しはじめた。私は在京委員会の一人として組織担当係となり、総・大会の設営、会員動向の把握、埋蔵文化財保護対策委員会の運営に携わり、『二次白書』の企画・編集はこの委員会の手で行われた。」(425.)

同じ「1970年代」という時代状況についても、立場性の違いによって目に映ずる風景は大きく異なる。ある人にとっては「一時の混乱期を乗り越え」て「前進しはじめた」のに対して、別の立場の人にとっては「ぬけがらの世界」と感じられるように。


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伊皿木蟻化(五十嵐彰)

後世のために対置すべき文言を書き留めておこう。
「我々はかつて「文全協」結成大会(70'年7月12日)に於いて、自称・他称の進歩的研究者岡本勇氏より”非国民”なる罵倒を浴びた事がある。彼等の「国民主義的運動」-「文全協」に対して、我々が批判している事に対する”お返しの言葉”であったのだろう。これは”ウレシイ事”ではないが、決して”ヤバイ事”でもないのである。何故なら、我々は国民としての存在様式を止揚し、人民として階級形成への大道を歩まんとしているからである。」(深沢 静樹1972「早急に総路線の確立を!! -情況と主体に関する問題提起-」『全国通信』第5号:28.)
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2019-08-29 17:35) 

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