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森村2009『笹の墓標』 [全方位書評]

森村 誠一 2009 『笹の墓標』小学館文庫(初出は『小説宝石』光文社、2000年1~5月号)

「深夜、山の方角の中腹に火が見えた。通常、火を焚く場所ではない。
火が見える夜は、工事現場や飯場に死者が出たときである。労働者たちは、あそこで死体が焼かれているのだと噂し合った。だが、噂の真偽を確かめた者はいない。労働者たちは、自分がいつ、あの火の燃料にされるのかとおののいた。
宿舎の格子窓が白むころ、労働者は叩き起こされる。「起きろ。働け」棒頭や取締人と呼ばれる班長が、六角棒を手に容赦なく労働者を叩き起こす。中にはせんべい蒲団をまくられ、六角棒で叩かれても動かない者がいる。ほとんど虫の息になっていて、動きたくとも動けないのである。時には、夜のうちに死んでいる者もいた。
土工夫(労働者)たちからタコ部屋と呼ばれている宿舎は粗末な仮小屋で、逃亡を防ぐために窓には鉄格子がはめられ、夜間出入口には閂がかかる。板張りの床には筵が敷かれただけで、冬は容赦なく吹き込む隙間風が筵を吹き上げた。タコ(強制)労働者と強制連行された朝鮮人労働者の宿舎は分けられているが、実態はほとんど同じである。

宿舎は中央の土間を挟んで左右両翼に分かれる。左手が親方や棒頭の個室、右手が労働者の寝室に当てられていた。
前日の重労働が重く澱んでいる睡眠不足の身体を無理やりに奮い立たせ、洗面器一杯の水で何人もが顔を洗う間もなく、「飯上げ」(朝食)の号令がかかる。
食事の内容は米三、麦、芋等七の割合の飯盛り切り一杯、味噌二、塩八の味噌汁一杯、漬物二切れ。弁当は前記割合の握り飯一個である。労働者たちはいずれも栄養失調で、腹が脹らんでいた。
食事も食物を味わう余裕などはない。ただ、最低限の生命を維持するためだけに動物の餌にも劣るような粗食を大急ぎでかき込む。労働実績のよい者は上飯台と呼ばれる部屋で食べ、中程度の者は中飯台と称するテーブルに座って食べ、最下級の者は下飯台と呼ばれ、立って食う。
「おれはもうだめだよ」朝鮮の郷里から騙されて連行されてきた李景信が、朴命水に力なく言った。
李は四十八歳で、この朝鮮人部屋では最年長である。李の衰弱は最近とみに著しい。
李は風邪をこじらせ、熱があった。だが、そんなことは仕事を休む口実にはならない。
高齢に、粗食と重労働を重ねて、もはや李の身体は使いものにならなくなっていた。これまで若い朴が庇ってきたので、辛うじて今日まで生きてこられたのである。
「李さん、なに言ってるんだ。そんな弱音を吐いちゃいけない。頑張れ。生きてさえいればチャンスはある」
朴は李の耳に口を寄せて励ました。
朴は信用人夫と呼ばれる自由契約の労働者であるが、タコ部屋に入れられて、信用人夫もタコ労働者もほとんど差のないことを知った。信用人夫は契約であるから、いやならばいつでもやめられるはずであるが、そんなことを言い出そうものなら、棒頭のリンチが待っている。
今日は労働者がアヒルと呼んでいる水中作業である。厳寒期の水中作業で、李の足は凍傷が悪化して肉が崩れ、足の指の骨が見えている。骨が露出した部位に藁を巻きつけて作業現場まで這いずるように歩いて行き、水中に入るので、凍傷は悪化する一方である。
厳寒期にもかかわらず、衣類はジュート麻の生地で、豆や米を入れる南京袋の繊維である。保温性はきわめて低い。ジュート作業衣をまとったタコ労働者が並んで歩いていると、南京袋の行列のように見えた。
李景信は朴命水に担がれるようにして、とにかく作業現場まで行った。
現場に着いたところで、李の体力は尽きた。身体は高熱を発して燃えるように熱い。
「この身体でアヒルは無理です」
朴は棒頭に訴えた。
「なんだと、この野郎。ふざけやがって。仮病をつかってサボろうとしやがっても、そうはいかねえぞ。立て。働け」
労働者たちから鬼頭と呼ばれて恐れられている北山という棒頭は、持っていた鞭で李を殴りつけた。だが、李は動けない。棒頭はますます激しく殴りつけた。
「棒頭、李さんが死んでしまいます」
朴は鞭を振るう棒頭の手を押えた。
「この野郎。きさまも痛い目を見てえのか」
棒頭の容赦ない鞭が朴の顔面を打った。火を当てられたような苦痛に耐えながら、
「李さんの分まで私が働きますから、休ませてやってください」
となおも訴えた。さすがの鬼頭も死なせてはまずいとおもったらしく、舌打ちをして、
「きさま、いまの言葉を忘れるな。その役立たずを小屋に運んで、二倍働け」
と朴に命じた。
宿舎に担ぎ込まれた李は、奄々たる気息の下から言った。
「朴さん、おれはもう助からない」
「なにを言うんだ。ちょっと熱が出ただけだよ。すぐ元気になる。二人で一緒にこのタコ部屋から逃げようと言った約束はどうしたんだ。頑張れ」
「おれはもう約束を果たせない。あんた一人で逃げてくれ」
「おれが李さんを残して逃げるとおもっているのか」
「一緒に行きたいが、おれはもうついて行けないよ。頼みがある」
「一人で逃げろと言ったって、だめだよ」
「おれは遅く結婚したので、郷里に今年十歳になる娘がいる。娘の名は貞媛。あんた、このタコ部屋から逃げられたら、おれの郷里へ行って、娘にこれを渡してくれ。娘にいっぱい土産物を買って帰ろうとおもっていたが、これしか買えなかった」
李は一本の赤い珊瑚の櫛を差し出した。
「李さん」
「世話になった。あんたに会えてよかった。あんたは若い。こんなタコ部屋で死んじゃあいけないよ。あんた一人ならきっと脱走できる。この戦争は間もなく終わる。平和になったら、あんたのような若い力が必要になる。あんたの活躍をあの世から見守っているよ」
朴の手を握った李の手が急速に弱くなった。李はその夜死んだ。
死体は近くの寺の本堂に一夜仮安置された後、いずこかへ運ばれて行った。
翌日の深夜、朴は山の方角の山腹に火を見た。その火を見つめながら、朴は、
「李さん、許してくれ。あんたと一緒に逃げるという約束を守れなかった」
と涙をこぼした。闇の奥の火がまたたいた。朴にはそれが、
「約束を守れなくなったのはおれのほうだよ。許してくれ」
と李が答えたようにおもえた。」(7-12.)

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