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白川2019「セリエーション」 [論文時評]

白川 綾 2019 「セリエーション -時間・空間・系統-」『物質文化』第99号:1-27.

「まず、セリエーションの研究史に触れながら、その概要を説明する。次に、セリエーションの原理原則について、時間・空間・系統の側面から検討する。最後に、考古学的手続きがセリエーションの原理・原則に則る限り課せられる制約と、コンテクストに依存する点を指摘する。」(1.)

セリエーションという考古学的な手法について、初めて正面から本格的に取り組んだ労作である。
セリエーションについては、以前にも思うところを少し記したことがあった【2017-09-23】。
今回の論考を目にして、少しはそうしたモヤモヤ感が晴れるかと期待しながら読んだのだが…
結論は、相変わらずモヤモヤのままである。

「頻度セリエーションは、2章の前提条件に基づき、遺物組成比率を百分率で示した棒グラフを分割し、それぞれの属性の棒(バー)を縦列(カラム)上で紡錘形(戦艦形曲線)を呈するように配列し直すことにより、年代順を決定したり現象を説明する手法である。」(10.)

先の記事でも記したが、最も著名なセリエーション・グラフ、筆者の言う「時間的頻度セリエーション」は横山1985である(図1)。ここでは「解釈手段としての時間的頻度セリエーション」として位置付けられている。

「歴年代などの時間軸に沿って遺物や属性を配置し、解釈を行うことが主に歴史時代の研究で実践されてきた。横山浩一、鈴木公雄、J.ディーツなどの研究が該当する。」(10.)

重要なのは横山1985では、先の頻度セリエーションの説明でなされた「配列し直す」という手順がないことである。なぜだろうか?

それは、縦列(カラム)の単位が「10年単位の紀年銘」という予め資料の製作時に付与された属性であるからである。そして横山1985と並び称される鈴木1999では、縦軸の単位は貨幣の改鋳時期という数十年単位の時間幅であり、その幅の中で「紡錘形を呈するように配列し直されている」のである。これは先史土器の組成比を対象とした資料操作、例えばペトリ―のSD法とは、根本的に意味が異なるのではないか?
純粋に製作時間のみに依拠してなされた横山1985、改鋳時期という製作時間を単位とする廃棄セットの組成比を組み合わせる鈴木1999、そして純粋に廃棄時間を意味する組成比のペトリ―と三者三様なのである。

「遺物組成比率を百分率で示した棒グラフ」というセリエーションという手法で必須の単位である棒(バー)の違いについて、もっと意を払うべきではないか?

「出現頻度が徐々に増大し盛行期に最大頻度を呈し徐々に衰退するという前提に基づくため、その出現頻度を表した図は、紡錘形(戦艦形曲線)を描くことになる。セリエーションは、「ある時間的断面を切り取った層位学的時間単位」や「異なる特徴を呈する土器を時間的前後関係に割り振る型式学的時間単位」とは異なり、時間的連続性を説明するための論理である。」(10.)

横山1985の墓碑型式の棒グラフは、「製作時間」である。
ペトリ―などの先史土器の棒グラフは、「廃棄時間」である。
「型式学的時間単位」とは、「製作時間」である。
「層位学的時間単位」とは、「廃棄時間」である。
この違いは、決定的のように思われるのだが。

「層位学と型式学は、本質的に目的も手法も異なるものであり、時期区分という枠組みの中では二律背反の関係にある」ことが述べられている(8.11.12.)。
はじめに製作時間で区切られた単位があり棒グラフが固定している近現代墓碑と、はじめに廃棄時間で区切られた単位があり棒グラフを配列し直す先史土器では、単なる「二律背反」といった言葉では言い表せないのではないか?

時間的セリエーションと空間的セリエーションについては、その違いが良く理解できた。
時間的セリエーションは、モノの形が「出現ー盛行ー衰退」をたどることを前提とする(10.)
空間的セリエーションは、モノの分布が「中心と周辺」からなることを前提とする(12.)
だから両者とも似たような紡錘形(戦艦形曲線)で示すことができる。
時間的セリエーションは、紡錘形が縦に並んだように表示され(図12)、空間的セリエーションは、それが横に並んだように表示される(図14)。

しかし空間的セリエーションで示される紡錘形は、時間的セリエーションの紡錘形とは決定的に異なる点がある。
それは空間的セリエーションの紡錘形は、本来上方から見た同心円が幾重にも重なった二次元の「中心ー周辺」を横から見た一次元の「中心ー周辺」に置き換えた「紡錘形」であるということである。
だから、二次元から一次元へと変換する過程で、必然的に情報の縮減(縮約)が生じざるを得ない。
「現象を秩序づける作業には成功していない」(13.)とされるのは、こうした事情に起因するのではないだろうか。

いずれにせよ考古学的方法論を考える上では欠かすことのできない議論である。
それを正面から取り扱った本論は、ある意味ですなわち第2考古学的な意味で「本年一番の収穫」と言えよう(本年はまだ終わっていないが)。

最後に。
上原 真人2009「セリエーションとは何か」(『考古学 -その方法と現状-』放送大学教育振興会)は、日本においてセリエーションについて述べた基本的な文献と考えていたのだが、こうした文献が参照されていないというのは、何か思うところがあるのだろうか?


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