SSブログ

日本考古学協会編2018『日本考古学・最前線』 [全方位書評]

日本考古学協会編 2018 『日本考古学・最前線』雄山閣

 総説(谷川 章雄)
第1章 中の文化
 旧石器時代(佐野 勝宏)
 縄文時代(小林 謙一)
 弥生時代<西日本>(吉田 広)
 弥生時代<東日本>(石川 日出志)
 古墳時代<西日本>(辻田 淳一郎)
 古墳時代<東日本>(若狭 徹)
 古代<西日本>(高橋 照彦)
 古代<東日本>(眞保 昌弘)
 中・近世(堀内 秀樹)
 近・現代(櫻井 準也)
第2章 北の文化と南の文化
 北海道(高倉 純)
 南島・沖縄(宮城 弘樹)
第3章 外国の考古学
 中国(角道 亮介)
 朝鮮半島(井上 主税)
 北アジア(福田 正宏)
 東南アジア(田畑 幸嗣)
 アメリカ(鶴見 英成)
第4章 考古学と現代
 年代測定・食性分析・遺伝人類学(國木田 大)
 動植物・資源(工藤 雄一郎)
 保存科学(建石 徹)
 遺跡と社会(岡村 勝行)
 災害と考古学(渋谷 孝雄)

何処かで、見たことがあるような章立て(構成)である。
そう、『考古学ジャーナル』の「臨時増刊号 考古学界の動向」である。それも「今」のではなく、「かつて」のである。

『考古学ジャーナル』の「動向」が旧石器・縄文・弥生・古墳・歴史という「基本5時代区分」でスタートしたのは、1966年のことである。以後「ジャーナル動向」は、1970年代の「東西区分の模索期」を経て70年代末から80年代初頭には中・近世を加えた「6時代12項目区分」に至る(五十嵐2016「動向の動向 -「日本考古学」の枠組み-」『東邦考古』第40号:208-216.)。

本書では、弥生・古墳・古代の3時代については東西区分がなされているが、前後の旧石器・縄文および中近世・近現代の4項目についてはなされていない。「ジャーナル動向」的には、まさに1970年代後半の認識を体現しているかのようである。
「ジャーナル動向」に北海道と南西諸島の項目が加わったのが1972年から、韓国と中国は1971年からといった状況も、そうした読み込みを裏打ちする。

本書において、こうした「ジャーナル」的動向形態に近現代の項目を加えた「第1考古学的枠組み」は17項目、第4章(考古学と現代)という「第2考古学的枠組み」は5項目である。
その内訳は、第1(17/22=77%)・第2(5/22=23%)で、ほぼ3:1といったところか。

これが、「日本考古学の現時点での到達点を総括」する認識となる。こうした比率(認識)は、個別の項目でもおおまかに踏襲されているようだ。
例えば第1章 旧石器時代では、第1的な記載が9ページほど(9-17.)、第2的な記載は5ページほど(17-21.)といった具合である。

以下、前回記事(「櫻井2018「近・現代」【2019-01-05】)以外に気が付いた記述について、幾つか言及してみよう。

「大形石棒4本を埋置した出土状況で著名となった東京都緑川東遺跡(口絵4)の調査からは、石棒祭祀の問題に留まらず敷石遺構の性格や調査記録の共有化の問題に至る広域な議論が提起され、「緑川東問題」と称された(黒尾和久・五十嵐彰・小林謙一ほか2017「公開講演会(ママ)『緑川東遺跡の大形石棒について考える』自由討論記録」『東京考古』35)。」(小林 謙一「縄文時代」:26・37.)

「緑川東問題」と称して問題提起したのは、「敷石遺構の性格や調査記録の共有化の問題」に留まらず「考古学的解釈の妥当性について」のつもりだったのだが…(五十嵐2016「緑川東問題 -考古学的解釈の妥当性について-」『東京考古』第34号:1-17.)

それにしても五十嵐2011「遺構時間と遺物時間の相互関係」『日本考古学』第31号が、そのまま「第2考古学」に結びつけられて表現されているのには、少し驚いた(31.)。確かに考古時間論が第2考古学の中心的な課題であることに間違いはないのだが…

「日本の考古学と社会の関係の言説のなかでは、考古学、文化財、文化遺産は本質的に良いものという前提で取り扱われることが大半であるが、それぞれの考察を質的に高めるためには、客観的な視点、メタレベルの考察、すなわち通常当たり前とされているものを当たり前だと我々に思わせる社会的構造を明らかにしていく作業が不可欠である(松田2013、23頁)。遺跡は「発見される」のではなく、現代によって「つくられる」(山2009)という刺激的な社会学的視点や、文化遺産が遺産化(heritagisation)される社会的、政治的プロセスに注目する批判遺産研究(Kristansen2015)など、現代社会における遺跡の多角的、挑戦的な考察によって、現場との議論が活性化することが望まれる。」(岡村 勝行「遺跡と社会」:277.)

岡村さんも大活躍された2006年の世界考古学会議中間会議大阪大会で「遺跡は存在するか? -遺跡問題の構成-」と題して発表したのだが、どうやら岡村さんにとっては「刺激的」ではなく、その後に「現場との議論が活性化」することもなかったようである。

「<遺跡>」概念には、あらかじめ意味と内容が合意されている。すなわち「実体視」されている。(略)<遺跡>問題の解明を通じて、日本的<遺跡>観を支えている構造を批判的に捉え返す必要がある。」(五十嵐2006「S15-01 Do sites exist? : issues in archaeological "site" 遺跡は存在するか? -遺跡問題の構成-」『世界考古学会議中間会議大阪大会2006 共生の考古学 -過去との対話、遺産の継承-』:111.)

発表の翌年には発表内容を活字化したのだが、状況は余り変わらなかった。
「<遺跡>は、単に「そこにある」といった存在ではない。複雑な利害を調整した上で「そこを<遺跡>とする」として設定される社会的なプロセスを経た構築物である。<遺跡>化とは、濃淡様々な価値を含んだ土地を分節し、<遺跡>なるものがあたかも実体として存在するものの如く産出される過程、<遺跡>が物象化されるメカニズムをいう。」(五十嵐2007「<遺跡>問題 -近現代考古学が浮かび上がらせるもの-」『近世・近現代考古学入門』:251.)

その後、岡村さんが言及されている山 泰幸2009「遺跡化の論理」『文化遺産と現代』に接して、「違った方向から同じような場所に到達している人がいるのを知って驚いた」という感想を本ブログで記したのは、2010年のことであった(山2009「遺跡化の論理」【2010-01-07】)。

なぜ「現場との議論が活性化」しないのか、その要因・構造を明らかにすることが、「最前線」における課題である。


nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

nice! 2

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。