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緑川東問題2018(その1) [論文時評]

新たな論点が提示された。

和田 哲 2018 「緑川東問題について -特殊遺構・石棒配置の証明-」『東京考古』第36号:103-112.

「ここでは、多岐にわたる問題があるが、敢えて、論点を下記の2点に絞って論証したい。
 ①、敷石遺構SV1は一般的敷石住居ではなく、特殊な祭祀遺構であること。
 ②、4本の石棒は敷石を一部剥がして、その部分を平坦にならして並置されたこと。」(104.)

前者(①)は私と同意見なので、後者(②)について感想を述べてみよう。
後者(②)は、4点(a, 多摩川中流域の敷石住居構築の地域的特徴 b, 敷石を剥がした証拠について c, 床下土坑と敷石の関係 d, 石棒の並置について)に分けて述べられているが、特に「b, 敷石を剥がした証拠について」(109.)が焦点となる。

該当箇所「b, 敷石を剥がした証拠について」(109.)の6行目から私の文章(五十嵐2016:6.)が引用されているが、引用の仕方が不適切なために読者に誤解を与えかねない。
以下、そのまま引用する。

「この問題の発端は「緑川東問題ー考古学的解釈の妥当性についてー」(『東京考古』34)に発表された問題提起の試論である。この中で敷石除去に関して黒尾和久氏らの主張に対し、五十嵐氏は「敷石除去に関しては…確証が得られない」としつつ、その「状況証拠はある」とする。その「状況証拠」として挙げられているのは、「床面レベルと壁ぎわ上部」の接合礫の存在および石棒上の「大形の接合礫」が「敷石の可能性を有する」という2点である。また3点目として「敷石上に放置された礫の状態から」「剥がされた敷石の行方を推測することができる」(五十嵐彰『東京考古』34 P6-18~21行)とする主張の曖昧さに異論を唱えている。」(109.)

これでは、「確証が得られない」とか「状況証拠はある」とか「敷石の可能性を有する」とか「敷石の行方を推測することができる」と主張しているのは、五十嵐のようだが本当にこのようなことを主張しているのだろうか?

五十嵐2016:9頁では、黒尾・渋江2014の131頁の文章に下線を付加して引用した後に、以下のように記した。

「「敷石除去に関しては…確証が得られない」としつつ、その「状況証拠はある」とする。その「状況証拠」として挙げられているのは、「床面レベルと壁ぎわ上部」の接合礫の存在および石棒上の「大形の接合礫」が「敷石の可能性を有する」という2点である。また3点目として「敷石上に放置された礫の状態から」「剥がされた敷石の行方を推測することができ」るとする。
本当にそうだろうか。仮にそうだとしても前述したように「剥がされた敷石」が遺構中央部における石棒が並置された場所に元々存在していた敷石であるという確証を得ることはできないだろう。敷石と推測された「割れた扁平礫」の由来についてある程度の確証を得るためには、剥がした敷石の形状と剥がされた地面のマイナス痕跡が一致すること(<もの>と土地痕跡の接合関係!)が要求されるだろう。」(五十嵐2016「緑川東問題」『東京考古』第34号:6頁、10~18行)

和田2018であたかも私の発言のごとくカギカッコで引用されている文章は、全て黒尾・渋江2014:131頁における文章である。私がカギカッコで黒尾・渋江2014として引用した文章を、更に引用する場合には、更にカギカッコをつけて引用しなければならないのではないか。いやそんな面倒なことはしなくても、ここでカギカッコで引用された文章の後に「こうした黒尾氏らの主張に対し」とか、(黒尾・渋江2014)と出典を明記して、「こうした主張の曖昧さに異論を唱えている(五十嵐2016)」とすべきではないだろうか?

それはともかく、
「敷石を剥がした証拠」として挙げられているのが、考古誌(『緑川東遺跡 -第27地点-』2014)の第10図(13頁)に加筆された「SV1の詰石(★)」という挿図である。

「筆者は敷石が剥がされた証拠は敷石間の詰石(適当な用語がないのでこの語にしたが、大礫間の充填礫)の存在である。本遺構の場合は8図左端に示したように南東側の敷石脇に詰石が明瞭に残り(実測図中に★印で表示)、詰石が残ることはその横に大礫の敷石が存在したことを証明する。また、北西側の敷石がない部分にも詰石が存在したため、本来、全面的に敷石が存在したと考えられる。」(109.)

そして結論として「…今回、筆者は「詰石」という証拠を示して、製作時配置説は成立しないことを証明し決着した」(111.)と宣言された。

しかし、今回6点の星印として示された「詰石」の実態(大きさや重量、出土レベルなど)を確認するには、読者はどのようにしたらいいのだろうか? 北西側にも「詰石」の存在が示唆されているが、それらはなぜ示されないのだろうか? 今回示された「詰石」と実際に敷石の間から発見された「詰石」との異同、あるいはSV1の覆土中に存在したであろう同サイズの小礫との異同といった当然なされるべき手続きは、いつどのようにしてなされたのか、あるいはなされるのであろうか? 読者は、どのような資料を読めば、そうした基礎データについて確認することができるのだろうか? そうした作業が示されなければ、読者は「決着」宣言の是非について判断できないだろう。

もし「詰石」とされた小礫の存在が、敷石と同様に遺構構築時の原位置を留めていることが「明瞭」であり、その存在が周囲にかつて存在したであろうはずの敷石の存在を示し、敷石が除去されたことの「証拠」になりうるのだとしたら、これはこのことだけで「配石遺構・敷石住居研究」における重大な新仮説であり、多くの人がそのことについて検討する必要があるように思われる。

「詰石」については、今まで誰も指摘することのなかった新たな視点と思われる。
及ぼす影響は、緑川東SV1の個別問題に留まらない。
縄紋時代ないしは先史考古学における遺構研究の一大画期となるであろう。

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