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「植民地朝鮮における帝国日本の古代史研究」 [研究集会]

「植民地朝鮮における帝国日本の古代史研究 -近代東アジアの考古学・歴史学・文化財政策-」

日時:2016年4月22日(金)・23日(土)
場所:日仏会館、早稲田大学26号館
企画代表:李 成市、ナンタ アルノ

「このシンポジウムでは、植民地朝鮮における古代史研究(考古学、歴史学、古蹟保護政策)のみならず、植民地期カンボジアにおけるフランスの考古学事業という前史のもつ意義、そして大陸中国における考古学活動をも参照しつつ、「植民地的状況」下で実施された学知を検討する。」(案内チラシより)

李 成市 「朝鮮古代史研究と植民地主義の克服」
崔 錫榮 「朝鮮総督府による古蹟調査と博物館の役割」
早乙女 雅博 「植民地朝鮮における考古学調査・古蹟保存と、それを通してみた朝鮮古代史像」
吉井 秀夫 「京都帝国大学考古学研究室からみた朝鮮総督府の古蹟調査事業」
箱石 大 「朝鮮総督府による朝鮮史料の収集と編纂」
裴 炯逸 「帝国の名勝地を視覚する -朝鮮植民地古跡の写真分類と観光メデア-」
藤原 貞朗 「植民地学としての東アジア考古学 -その理念と実践の比較検討-」

裴氏と藤原氏には、3年前の論文時評でお会いしていたのであった。
考古学プロパーとして発表されたお二人の発表は、6年前の専門誌における特集論文の内容と大枠で余り違いがあるようには思われなかった。

「「日本考古学の練習場」という批判があったように、(植民地期の)朝鮮考古学は日本考古学の発展とも密接な関係をもった。」(早乙女 雅博2010「植民地期の朝鮮考古学」『考古学ジャーナル』第596号:5.括弧内は引用者挿入)

「…慶州をはじめとする朝鮮半島の古墳の発掘・記録技術は、日本列島における考古学に少なからずの影響を与えた。」(吉井 秀夫2010「植民地時代慶州における古蹟調査事業」『考古学ジャーナル』第596号:17.)

「日本考古学」(日本列島における考古学)と植民地期の「朝鮮考古学」は、異なるもの(別物)なのだろうか。
植民地朝鮮は、日本の一部であった(内鮮一体)。植民地朝鮮で行われた考古学は、日本人考古学者が主体となってなされた。
ならば植民地朝鮮でなされた考古学は「日本考古学」だったのではないか。 
現在の国境線で区切られた空間内における考古学を固定的に考える「固定考古学史観」に対する国境線の変遷を考慮し考古学的行為の主体者を重視する「伸縮考古学史観」である。

「第二次大戦後、朝鮮民主主義人民共和国(以下北朝鮮という)と大韓民国(以下韓国という)が成立すると、日本の古蹟調査に対する厳しい批判が北朝鮮と韓国の研究者から提起されたが、日本人考古学者からはそれに対する回答はほとんど出ていない。批判は主に調査組織、総督府の植民地政策、日本人の歴史観に対するものであり、考古学研究それ自体ではないため日本人研究者からは答えにくい面もあったと想像する。」(早乙女 雅博2010「植民地期の朝鮮考古学」『考古学ジャーナル』第596号:3.)

「こうした植民地朝鮮における日本人の調査活動に対する評価は、その立場により大きく異なる。まず、実際に調査に関わった日本人研究者達は、「日本人の古蹟調査事業は、朝鮮半島の古蹟の実態を明らかにし、それを保存する役割を果たした」と主張した。それに対し、大韓民国(以下、「韓国」と表記)や朝鮮民主主義人民共和国(以下、「北朝鮮」と表記)の研究者達は、「日本人の古蹟調査事業は、朝鮮民族の文化財の破壊・略奪であり、その成果は植民地支配の正当化のために用いられた」と主張してきた。
しかし、このような議論を進める前提となるべき、当時の調査研究の実態を明らかにする作業は、必ずしも進んできたわけではない。」(吉井 秀夫 2013 「朝鮮古蹟調査事業と「日本」考古学」『考古学研究』第60巻 第3号:17.)

「植民地朝鮮における考古学研究」に関しては、大きく2つの立場がある。
第1は、植民地朝鮮において、誰が、いつ、どのような調査をして、どのような<もの>が、どのようにして出土したのか、それがどのように報告されたのかという過去における実態を明らかにしようとするものである。過去に何がなされたかを詳細に明らかにすることを目的とする。
言わば「歴史実証主義」とも言うべき姿勢である。
第2は、そのようにして発掘されて植民地朝鮮から帝国日本に持ち去られた遺物や人骨などは誰がどのようにして日本に持ってきたのか、そしてそれらは現在、何処にどのような状態で保管されているのかということを詳細に明らかにすることを目的とする。
言わば「現状把握主義」とも言うべき姿勢である。
この考え方の根本には、「あるべき<もの>はあるべき<場>にあるべきである」という日本人考古学者の戦争・戦後責任(考古倫理)に関わる問題意識がある。

現在の「日本考古学」では、第1の立場が主流を成している。
それは6年前の「朝鮮考古学史」という専門誌の特集(「そこで本特集では、植民地期の朝鮮考古学研究がどのように行なわれ、研究がどこまで到達したかを検証することを目的とする。」(早乙女2010「植民地期の朝鮮考古学」:3.))以来、現在に至るまで殆ど変化がない。

第1の立場は、往々にして「学問と政治は分離できる」とする「分離主義」に立つことが多い。
それに対して第2の立場は、「日本人の歴史観」と「考古学研究それ自体」は一体化していて分離できないとする「一体主義」を基本とする。

「日本考古学」とは違って、現在の「世界考古学」では第2の立場が主流を成している。
そのことは、4ヵ月後に京都の地で明らかにされるだろう。

T03-E: Histories of Collecting and Futures of Collections -Museums, Revitalization and Repatriation
T03-G: Repatriation in art and creative media: critical and creative responses to repatriation
T03-H: The Repatriation Archive
T03-I: The Effects of Repatriation: Healing and Wellbeing
T03-J: Global Networks of Removal: Interrogating international acquisition of ancestral remains and heritage resources in the 19th and 20th centuries
T03-K: Repatriation, Identity and Negotiating the Futures
T03-L: Repatriation and its Progress, Processes and Problems
T03-M: Indigeneous Experiences and Histories in Repatriation
T03-N: A Global Movement: Repatriation Reflections from Around the World
T03-O: Museums and Communities working together: shared reflections on Repatriation

「過去」を明らかにする立場と「現在」を明らかにする立場、どちらかではまずいだろう。
すなわち、両方がなされなければならないのだ。
しかし現在の「日本考古学」では、いまだに「過去」だけを詳細に明らかにすることに精力が注がれている。

シンポジウムの最期に企画者が述べた言葉が心に残った。
それは14年前に発表された自らの論稿の結論に関わることでもあった。

「支配の道具としての考古学に対する反省もなく、無自覚でいるために、現在の自己に対する盲点が生じ全体像の把握に困難をきたしているとしか考えられない。それゆえ、植民地時代の歴史学の検証は、現在の日本歴史学のありかたそのものを問うことにもなると思うのである。」(李 成市2002「コロニアリズムと近代歴史学」『崩壊の時代に』:182、一部の語句を修正、年表および註を加筆して2004『植民地主義と歴史学』刀水書房に再録)

「植民地時代の考古学の検証」すなわちどのようなスタンス(立場)で植民地時代の考古学的活動のありかたを明らかにしていくのか、単に当時の活動を詳細に明らかにするだけなのか、それともその遺産である発掘資料が現在どのような状態にあるのか、現在の状態をそのまま維持していくのか、自らの立場を明らかにすることが、現在の日本考古学のありかたそのものを問う試金石になるだろう。
その際に私たちは、植民地主義を正当化する様々な政治的言説(そのあるものは巧みな学問的偽装が施されていることだろう)を見極める力量が問われることになる。


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