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俵2008『境界の考古学』 [全方位書評]

俵 寛司 2008 『境界の考古学 -対馬を掘ればアジアが見える-』ブックレット<アジアを学ぼう>12、風響社

「日本考古学会が対馬で発掘に臨んだ志多留貝塚・大将軍山古墳(現上県町志多留)、賀谷洞窟(現美津町賀谷】等の報告をみると、「対馬に住んでいる日本人」の習俗から「南鮮」の影響をみながら、弥生式土器の出土に静岡県登呂遺跡の農耕集落を連想し、原史・古代においては、大陸・朝鮮半島の発掘事例を引用しながらも、「内地古墳の範疇に加えるにいささかも躊躇する必要がない」ということが強調されている。
日本考古学会のこうした解釈が、東亜考古学会のものと本質的に代わり映えしないことは驚くべきことではない。戦後民主主義の黎明期にありながら、ただ、先の近藤の文言にある「侵略」を、新しい「国民」や「国境」に置き換えればすむのである。すなわち、「国民」「国境」というものの無批判・無反省な容認・黙認の上に立って研究活動を展開すること自体、歴史的事実よりも新しい戦後の社会に対する理解の欠如を示し、それは日本の歴史を研究するものとして「重大な自己否定」となった。」(17.)

俵氏は、ベトナム考古学の紹介以来2度目、今回はご自身の出身地を題材にした論述である。

引用文は、1948年の東亜考古学会による対馬調査に引き続く1950・51年の九学会連合による対馬調査について述べる中での一文である。「先の近藤の文言」とは、近藤義郎1964「戦後日本考古学の反省と課題」『日本考古学の諸問題』の中の一文「…すくなくとも侵略の容認なり黙認なりの上に立って、研究活動を展開したことは、それが人類の未来を指し示す任務をもつ歴史研究の一環であるだけに、意識すると否とを問わず、重大な自己否定となってはねかえった」(314.)を指す。しかし批判の対象となった「日本考古学会のこうした解釈」(駒井和愛1951「考古学から観た対馬」『人文』第1巻 第1号:47-54. 三木文雄1952「対馬の古墳 -志多留所在組合式石棺に就て-」『漁民と対馬・漁業制度改革の討論』九学会年報(人類科学)第4集:127-131.)は、近藤1964が発表される10年以上も前に発表されたものであり、戦時期の「侵略」の用語を戦後の「国民」や「国境」に置き換えて批判するのは、やや無理があるのではないだろうか。

それは冒頭の引用文の直後に「「境界」としての対馬の生の姿を目前にしながらも、国民主義的な枠組みから脱皮することは、戦後の人文社会科学すべてにおいて困難だったのではないだろうか」(18.)と述べられている通りである。
筆者も依拠するサイードの『オリエンタリズム』の日本語訳出版は、1986年である。

1950年代における「日本考古学会のこうした解釈が東亜考古学会のものと本質的に変わり映えしないこと」はもとより、2010年代における日本考古学協会の判断も「本質的に変わり映えしないこと」は、文化財返還問題を巡って本ブログにおいて縷々述べてきたことである(タグクラウド「日本考古学協会」参照)。

なお筆者は、「おわりに -「境界」の未来-」と題した最終章にて、半井桃水(1861-1926)を導き手として「境界」の未来を語り、その中で安斎正人氏の「批判的な考古学」(『人と社会の生態考古学』:294.)について触れ、小川・小林・両角編2007『考古学が語る日本の近現代』と「共通する見方」としている(注(70):57-58.)。
しかし小川・小林・両角編2007のキーワードは「面白さ」であり(「本書は考古学によって近現代を読み解いてゆく中には上述のような面白さがあるということを伝えようと企画された」両角2007「はじめに -近現代考古学の面白さ-」:i-v.)、「考古学を批判的に行なっていこう」という安斎氏の主張とは目指すべき方向性に隔たりがあるように思われる。


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