SSブログ

鄭2006「植民地朝鮮における「古蹟調査」の記憶」 [論文時評]

鄭 仁盛(Jung In-seung) 2006 「植民地朝鮮における「古蹟調査」の記憶 -関野 貞による楽浪遺跡の調査・研究-」『コロニアリズムと「朝鮮文化」 -朝鮮総督府「古蹟調査事業」をめぐって-』21世紀COEプログラム関連シンポジウム、早稲田大学朝鮮文化研究所編:9-18.

2005年11月に開催されたシンポジウムの報告である。

「近年、日本では関野貞の韓半島での調査活動、そして研究業績全般に対する基礎研究や再評価が活発に行われている(早乙女1997、高橋2001、内田2001)。これらの作業を通じて関野貞の韓半島での調査活動の軌跡やその内容は確かに明らかになりつつある。このような一連の研究は関野貞の活動が氏の関与した様々な学問分野においてどのような影響を与えたのかを解明することに焦点が置かれているように読み取れる。その反面、関野貞を初めとする日本人研究者による植民地朝鮮における古蹟調査活動そのものが持つ意義を批判的に総括するとか、あるいは韓国や韓国人の立場を考慮に入れての研究はほとんど見当たらない。かつて解放直後、藤田亮策など植民地朝鮮における古蹟調査を主導していた研究者たちが自らの活動を科学的でかつ世界で類例のないぐらい優れた文化政策だったと自賛する中、厳しい自己批判を基礎においての総括を試みた西川宏や近藤義郎のようなスタンスに立った議論はほとんど見当たらない。」(9.)

9年前に報告され8年前に活字となった文章だが、今でも殆どそのままというのが「現状」である。
2013年に考古学研究会でなされた研究集会での報告(吉井2013「朝鮮古蹟調査事業と「日本」考古学」)では、本記事著者の慶州古蹟保存会と諸鹿央雄に関する2009年の韓国語論文は文献として挙げられているが、本報告については見当たらない。
何故だろう?

「綜合討論
鄭 (略) 韓国の考古学や古代史のことをずっと見ますと、やはりこの時代一番よく出てくるのが楽浪ですよ。鉄器をやっても、古代国家の成立、弥生との関係を見てもすべて楽浪ですよ。1980年代になって韓国では原三国時代の土器は何であるかというすごい論争があったのですけれど、そこでも一つの軸が楽浪ですよ。楽浪か戦国かといったような具合で、それくらい考古学界では楽浪が重視されるんですけれども、残念なことにですね、資料がないんですよ。わたしみたいに考古学をしている人間は、目の前に土器や何か物がないと、何にもできないですね。もちろん違う偉い方もいらっしゃいますが。で、東京大学に留学してみたら、その前から植民地時代の遺物がある。とくに楽浪関係の遺物もあるだろうということで、来てみたのですけれども、いろいろ調べてみたらですね、わたしの想像を超えるくらいに資料があったんですよ。ほんとうにわたしは興奮して、毎日毎日興奮の連続でした。ある日、倉庫からまだ誰も開けていない楽浪関係の遺物を見つけたときは、もう開けずに家へ帰ってそのまま寝たんですよ。ぐっすり眠れなかったんですけれど。朝起きて、風呂へ入って、それで身を清めるというんですか…、それで戻って開けるときの気持ちというのは、やはり考古学をやっている人間としては、発掘をやって新しい資料を見つけるのとまったく同じことでして、それくらい資料に執着して、それしか見えなかったですよ。朝から晩まで写真を撮ったり、スキャニングしたりするわけです。自分がいま何をしているかというと、もうわからなくなってしまうんですよね。あるとき、4年くらい過ぎてでしょうか、ある人がこういう話をしたんですよ。「やはり、鄭さんはいいですよね。この当時のことを考えたら、韓国は何もできなくて、文化財があるのをわかって、わたしたちの先輩がこんなに大事にこちらに持ってきて保存しておいた結果、あなたはこんないい仕事ができるんじゃないですか」と淡々とわたしに言うわけです。それまでわたしは資料に執着して、何にも見えなかったんですけれども、そのときは本当に後ろから銃で撃たれたような気持ちがして、韓国に生まれて、韓国籍で、わたしが韓国の歴史を勉強するために、日本に来ているんですけれども、毎日倉庫に入って韓国の資料を見ながらもやはり、周りの先生方や先輩・後輩たちにすごく気を配りながら、一体わたしはいま何をしているんだろうと、すごく思うようになりました。その後、研究の幅を少し広げて、やはりこの時代のことをずっと読んでいたら、わたしがずっと考えていたことに対して、旗田[巍]先生の論文を読むことになったり、李進煕先生とか、近藤[義郎]先生とかの論文を読んだりしながら、全体的な流れが分かったんですけれども、それで2年前に李成市先生にお目にかかって、全体的にわたしはこれから何を勉強して、何を考えなきゃいけないのかということがよく分かるようになりまして、一種の眼差しというんでしょうか、それを与えてくださったのが李成市先生であるわけです。いま本当に不足しているんですけれども、植民地時代の古蹟調査について全体の流れを勉強してみようという気になり、その上でわたしの専門は楽浪ですから、楽浪を中心としたことを勉強したいんですけれども。」(62.)

周囲に「すごく気を配りながら」黙々と資料調査をしている隣国からの留学生に対して、ある意味で親しみを込めて、しかし何気なく不用意に語りかけた「ある人」の言葉が、本人にとっては「後ろから銃で撃たれたような気持」がしたという、「日本考古学」に関わる全ての人が心に留めるべき重いエピソードである。

「日本人の古蹟調査事業は、朝鮮半島の古蹟の実態を明らかにし、それを保存する役割を果たした」という主張が、ある場合には「人を銃で撃つ」ような衝撃を与えうるのだ。


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0