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縄文研究の地平2014 [研究集会]

縄文研究の地平2014 -縄文時代中期末葉から後期初頭の文化変化-

日時:2014年3月8日(土) 10:00~16:50
場所:中央大学多摩キャンパス3号館3353教室

黒尾和久「緑川東遺跡から見た中期末葉~後期初頭の再評価」
千葉 毅「土器様相から見た加曽利EⅤ式と称名寺式土器の相互作用」
小澤政彦「多摩地域における称名寺式土器の特徴」
小林謙一「炭素14年代測定による中期末葉から後期初頭の型式別の実時間」
中山真治「多摩地域の中期末・後期初頭集落遺跡分布」
山本典幸「敷石住居址の構築から廃絶までのプロセスと景観の変化」
高橋 健「称名寺式期における漁労活動」
長田友也「石棒祭祀にみる様相」
討論 司会:黒尾和久

今月中には刊行されるという、あの「緑川東遺跡」を焦点とした研究集会である。

私にとっては、加曽利EⅤが後期であろうと、称名寺が中期であろうと、「どっちでもいい」のである。この場合の「どっちでもいい」という意味は、「どっちかである」、ということとイコールではない。むしろ「どっちでもない」あるいは「どっちでもある」ということである。
こうしたことは、セリエーションのバトルシップの舳先(へさき・船首・bow)と艫(とも・船尾・stern)が触れ合う領域では、当たり前の事柄なのである。「どっちかでなければならない」という考え方自体を疑うべきではないか、といったことを、トラセオロジストの友人と語り合いながら、帰途についたのであった。

「4本の石棒は敷石遺構SV1構築時には存在せず、SV1の敷石を一部取り除き半身がめり込むように埋置されている点である。石棒自体を敷石材として転用したとは考えがたく、また置いた後に動かした痕跡が無いことからも埋置という表現が妥当であろう。」(長田配布資料:2.)

あの石棒が置かれた経緯について、発表者は皆、「敷石を取り除いた後に」という点で一致しているようである。すなわち敷石遺構であるSV1の構築・機能時(フェイズ①)と石棒埋置(フェイズ②)を段階差として捉えているのである。しかしその根拠、石棒が置かれていた場所には敷石が敷かれてあり、石棒を埋置する際に、それらの敷石が「取り除かれた」という根拠は、何だろうか? 石棒が置かれた場所の下部から、敷石が敷かれていた痕跡が確認されたのだろうか? 会場内で回覧された当該考古誌のゲラ刷りで、そこまで確認することができなかったが、私は「考えがたい」とされた考え、「石棒自体を敷石材として」敷石遺構の構築時に埋置した可能性が充分ありうるのではないかと考えている。

さらに埋置することに意味がある、すなわち局所的にあの特異な「景観」を創出することに意味があり、ああした「景観」自体がある期間、数十年間、ひょっとすると50~100年以上も露出して、人々の目にさらされるべく備えられていた可能性すら排除できないのではないか。
とすると、あの石棒が埋置された「考古時間」とその直上から出土した遺物が廃棄された「考古時間」も、通常の生活遺構である住居跡の「床直(床面直上)」と同じ扱いをするのには慎重であるべきではないかと考える。

兎に角、特異な出土状況である。100年に一度の発見ではないかとすら考えている。分からないことだらけである。
4本の履歴も全く不明である。一世代一本を継承したある共同体の四世代分を埋置したのか(縦説)、それともある時期の異なる共同体が所有するそれぞれをあそこに集めて入会的に埋置したのか(横説)、それとも単一集団が所有する四本を埋置したのか(点説)、それすらも不明である。

「文化史復元を模索する過程で、一つの遺跡から大量の遺物群と変化に富む遺構群が見つかる日本考古学の個性を考えたとき、出発点として崇高な理論に依拠することは現実的とはいえない。その一方、文化要素の記述と低位の法則を求める記述考古学に留まることも躊躇される。重要な作業は、考古事象の分析から複数のパターンを抽出した後、それらのパターンを解釈するための理論と方法論を選択的に設け、あくまでも仮説である解釈内容を新しい考古事象で追従/反証するといった思考の過程を意識することである。細分された時間、土器型式、大別、文化、地域の違いに関係なく、複数の物質文化要素や文化現象を線で繋ぐ行為とそれを解釈するための枠組みが求められている。」(山本配布資料:1.)

「線で繋ぐ行為」が、まだまだ脆弱である。そこをこそ強化していかなければならないだろう。

ちなみに身近な人の名前の誤記を指摘しておく。
丹野雅人編1998・1999・2003~2006・2009『多摩ニュータウン遺跡 No.72・795・796遺跡』東京都埋蔵文化財センター


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カラス天狗

早速のコメントありがとうございました。
敷石があったものが剥がされて、その微凹地に石棒が並置されたと考えた根拠は、敷石礫の接合状況や、それを被覆する土砂や礫、そして土器の出土状況・接合状況からでした。
石棒の並置とそれを見えなくする土砂や礫、土器の廃棄は一連のものとする蓋然性は高いと判断しました。
ですから石棒が「数十年間、ひょっとすると50~100年以上も露出して、人々の目にさらされるべく備えられていた可能性」はゼロとは言い切る自信はないですが、その蓋然性は相当に低いと、現状では考えています。
緑川東の「考古誌」がお手元に届きましたら、また忌憚のないご批判をお願いします。

by カラス天狗 (2014-03-10 22:10) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

敷石礫のどのような接合状況ならば、あるいは土器のどのような接合状況ならば、今はなくかつては存在した敷石の存在を言い得るのか、「線で繋ぐ行為」について、考古誌を元に改めて検討させていただきたいと思います。
なお付け加えるならば、「敷石‐石棒同時説」に立脚するならば、当該遺構が「敷石住居跡」ではなく、あえて「敷石遺構」と呼称されている点についても、より容易に理解が可能ではないかとも考えています。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2014-03-10 23:02) 

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