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俵2006「近代としての「東洋」考古学」 [論文時評]

俵 寛司 2006 「近代としての「東洋」考古学」『東南アジア考古学』第26号:35-57.

前回の台湾からさらに南西に1600kmほど、インドシナ半島では日本の植民地考古学の手本となるような事態が展開していた。

「本稿は、近現代における「東洋学」および「考古学」をめぐる思考様式について、ベトナムの古代史・考古学を素材としながら論じるものであり、特に、フランス植民地時代末期の1930年代~1940年代にスウェーデン人考古学者オロフ・ヤンセ(Olov. R. Janse)によって行われた「インドシナ考古調査」を事例として取り扱う。」(35.)

第9回ヨーロッパ東南アジア考古学者国際学会での英文報告(Tawara2003)および博士論文の一部によって構成されている。
題名にベトナムという単語が見られず、内容と看板に若干の隔たりがあるように感じたが、それが題名の東洋という言葉に括弧が付された意味なのだろうか。
それはともかく、ベトナムを巡る諸事情に疎い私には、それらがまとまって述べられており有益であった。

「ヨーロッパにおける「東洋コレクション」の形成は、ヨーロッパ諸国のアジア進出が本格化する19世紀中頃に遡る。特に1920~1930年代には、膨大な数量の東洋コレクションが、ヨーロッパおよび日本の博物館・個人収集家のもとに流入し蓄積した。その中には、いわゆる「インドシナ・コレクション」と呼ばれるものも数多く含まれる。現地において収集あるいは略奪された、古代の青銅器や前近代の陶磁器、ヒンズー・仏教文化の建造物の一部や彫像など、膨大な数量のコレクションが、研究者や古物収集家、骨董商人らの手を通じて、「商品」として海を渡った。そうしたコレクションの売買は、国際的な古美術市場を形成するとともに、本国のアカデミーと現地のフランス極東学院の財政にも大きく影響していた(Singaravelou1999:247-267)。インドシナから海外に「輸出」されたコレクションの大半は、フランスに輸出されたほか、アメリカ、イギリス、ベルギー、日本などに運ばれ、各国の公立・私立の博物館や骨董・古美術商らによって入手された(例えば、クメール文化の彫像に関する1927-1946年の統計では、ピークとなる1936年の21700ドルの内、ニューヨーク・メトロポリタン博物館だけでも19500ドル分が購入されている)。」(39.)

フランス領インドシナにおけるスウェーデン人考古学者ヤンセの活躍という輻輳した国際関係。
「オリエンタリズムとナショナリズムの思考様式を内在させた「考古学」の実践は、全体として西洋中心主義的な歴史観とも相成って、「東洋」と「西洋」という排他的だが曖昧な認識論的区別をアジアとの直接の文化的・歴史的な影響関係に映し出し、そして「文明の起源における西洋の優越」へと絡めていた。ヨーロッパとアジアをめぐるこのような複雑な思惑の中で、1930年代、仏領インドシナ時代ベトナムを対象とする「東洋考古学」は成立したと推測できるのである。」(43.)

ヤンセによる1934-35年の第1次インドシナ考古調査では、漢代墳墓、ドンソン遺跡などが発掘され、出土遺物はハノイの極東学院、ルイ・フィノ博物館に一部保管され、本国のルーブル、ギメ、シェルヌシといったパリの国立博物館で分割収蔵されたほか、特定個人(スウェーデン皇太子グスタフ・アドルフ)へ寄贈され、財政支援の謝礼としてスウェーデン・ストックホルムの考古博物館、ベルギー・ブリュッセルのサンカントネール博物館にも寄贈された。

同じようなことは1936-37年の第2次インドシナ考古調査でもなされていた。
「タインホア省ホアチュンにおける未撹乱墓の発掘調査では、初代公衆衛生大臣ゴダール(M.Justin Godart)夫妻、タインホア省駐在公使ラグレーズ(M.A.Lareze)らの現場視察の際、各人に出土品の一部が寄贈された。そして、ビムソン1A・1B号墓の発掘調査の際には、インドシナ総督ブレビィエ(Jules Brevie:1936-1939)と補佐官数名が、フランス極東学院院長セデス(M.G.Coedes)に案内されて視察に訪れ、セデス自ら出土品の一部を寄贈した。」(45.)

こうした慣習は、フランスだけに限定されたものだったのだろうか?
当然のことながら地元社会の反発から、1938-39年の第3次調査ではサボタージュ、ボイコット、脅迫、遅延が頻発したようである。

「こうした現地社会の反発を「地域ナショナリズム」と分類処理し、最終的に削除していこうとする一見「科学的」な態度は、アカデミー(=近代科学)と国家との政治的な共犯関係が批判に曝されている場合、全く無意味であるばかりか、調査者の権力的な位置を無化するものである。それは、破壊された遺跡地の調査や保存を理由とするものであっても、植民地状況において「真理」を追い求める調査者は、沈黙を強いられる受け手の側にしてみれば、一方的な価値観を押し付ける単なる「帝国の手先」にすぎない。ただし、植民地的ないし隷属状況においては、現地社会の人間であっても支配者の権力的、経済的関係に絡めとられてしまっている場合も多くあり、すべての人間が被害者として扱われるほど単純ではなかろう。そのような矛盾をはらんだ社会的関係を把握するためにも、入念な現地調査が必要であることは確かである。」(54.)

「破壊された遺跡地の調査や保存を理由とするものであっても」 ⇒
「その実態を把握し、過去に対する正確な知識を獲得するということは、時には保存・保護よりさらに重要なのである。」(小野・日比野1990)

「植民地状況において「真理」を追い求める調査者」 ⇒
「われわれはあの戦争のさ中にあつても、自分達の学問の途をまつしぐらに邁進してきたつもりである。」(小野・日比野1946)


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