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小熊2001「金関丈夫と『民俗台湾』」 [論文時評]

小熊 英二 2001 「金関丈夫と『民俗台湾』 -民俗調査と優生政策-」『近代日本の他者像と自画像』柏書房:24-53.

「ある人々を調査し、描きだすとき、調査や表象を行なう側は、どのような意図を抱いていたのか。また調査される側は、どのようにそれを受けとめたのか。
この問題は、民族学や民俗学の内部において、さまざまな議論が重ねられてきた。1960年代から、少数民族や第三世界など「調査される側」からの抗議が行なわれている。またほぼ同時期に、アメリカ政府などによる人類学調査への補助が、冷戦体制下における世界戦略の一環として位置づけられていたことが知られるようになり、人類学者がそれに協力することへの内部批判が台頭した。近年の「オリエンタリズム」批判や、植民地支配と人類学的調査の関係をめぐる研究も、この延長線上にある。」(24.)

前回までの中国大陸山西省陽高県から南南東へ約1800km、同じ頃、台湾では更に複雑な人間模様が展開していた。

「調査者と被調査者、そして政治的権力という、調査にかかわる三者の意図と実際的効果は、しばしば擦れ違いを生じる。そこでは、主観的には善意の調査が被調査者の怒りを買ったり、純粋な学術研究のつもりで行なわれた調査が政治的権力に利用されるといったケースが少なくない。あるいはその逆に、調査者が統治政策に貢献するつもりで行なった調査が政治的権力と対立してしまったり、差別と偏見に満ちた調査が結果として現地の人々から歓迎されるといった場合も想定しうる。
本論が主題とするのは、調査にかかわる人々の間に生じる、このような意図と結果の錯綜である。」(25.)

1941年から1945年にかけて金関丈夫を中心として発刊された『民俗台湾』を巡る人間模様。
国分直一・池田敏雄ら金関と共に働いた人々は、『民俗台湾』が当時総督府が進めた皇民化政策に対抗して台湾の独自の文化を擁護した良心の砦であったという。他方で、川村湊は金関の民族論にある種の冷たさが感じられるという。著者は両者の主張の根拠を探りつつ、その裏面史を明らかにしていく。

皇民化政策に抵触するとして批判された『民俗台湾』にも、時局的発言が少なからず散見される。このことをどのように評価するか。ある見方は、弾圧を避けるためのカムフラージュというものである。しかし筆者は、「むしろその逆に、意図としては民族政策への貢献を指向していながら、調査能力がそれに伴わなかったとみたほうが適切」(29.)だったという。
何がカムフラージュで、何が本音なのか。それを見極めるのは、思いのほか難しい。なぜならば本音が明らかにされなければ、表出した本音を「実はカムフラージュだったのだ」と言いくるめることも可能になるからである。

台湾総督府民生長官であった後藤新平によってなされた「台湾旧慣調査」。ただやみくもに同化を推し進める皇民化政策ではなく、現地の事情を把握すべしという一見文化相対主義的な民族調査の重視である。しかしその背景には、新渡戸稲造、矢内原忠雄から柳田国男へと連なる現実に対応した植民政策学があった。そして内鮮結婚や内台結婚を推進する同化主義(皇民化政策)に対して、民族間の混血防止に努める優生学者たち。
『民俗台湾』に見られた表面的な「皇民化政策への抵抗」の裏には、冷徹な民族差別と優生思想が存在していた。

「国分や池田にとって、台湾の民俗を愛する「ヒューマニズム」と、調査が「植民地民政」に役立つこととの間に、矛盾はなかった。そこには、慣習をいっさい無視した皇民化政策よりは、調査にもとづいた巧妙な統治のほうが、まだしもベターであるといった政治的判断の苦渋も表れてはいない。おそらく『民俗台湾』に集った日本側知識人の多くを支えていたのは、こうしたややナイーブな「良心」であったと思われる。」(36-7.)

意図しないカムフラージュ。当人たちは、心底「良心」に基づいていたのであろう。
戦時中に特高警察の監視下に置かれていたとか治安維持法違反で検挙されたとか、単にそのことだけで反戦平和とか民主的精神の持ち主の証しにはならないという当たり前のことだが。

「聞くところに拠ると本島人の近年の繁殖率は非常なものであるらしい。…しかしこれだけの出産には必然のことゝして非常な消費が伴ふものだと云ふことを知らなければならない。…将来彼らが国家にとつて有能者たることを期待し得るからこそ、われわれはこの負担を忍ぶのである。一生を病院で送り、刑務所で終るものゝためには、われわれはこの犠牲を払ひ度くないのである。…何ら有能ならぬものがいくら殖へ、いくら国語を話し、内地姓を名乗つても、それは何の役に立つものではない。」(金関丈夫1941「皇民化と人種の問題」『台湾時報』1941年1月号:27-28.)
「彼等に対して如何なる結婚を奨励し、如何なる結婚を避けしむべきか。またその指導を如何に実行すべきか。之れに対して当局の採るべき道は唯一つである。台湾に於ける厚生科学の確立と、その研究に基づく強力なる優生政策の施工とである。」(同:28-29.)

「…池田の側は、のちに台湾人女性と結婚したという彼の指向からいっても、金関の意図を知らなかったのではないか。おそらく『台湾時報』に金関とならんで寄稿した中村哲はともかく、国分や池田をはじめとした『民俗台湾』のスタッフたちの大半は、金関の沈黙に対して自己の「良心」を投影し、それを疑わぬまま協力していたのだと思われる。金関もまた、冷徹な優生政策の信奉者であると同時に、ややディレッタンティズム的な民俗への関心をもつ人間であったから、編集現場では後者の顔だけをみせていれば十分であったろう。」(44.)

恐ろしい話しである。そして十分にあり得る話しである。人間、善と悪、正義と不義だけで割り切れるものではないことが良く分かる。同じようなことは、現在2014年の今でも起こりうる、現に起こっていることだろう。
『民俗台湾』の発刊趣意書を読んだある台湾の詩人は、そこに川村氏と同様、冷たい高飛車な態度を感じ、反発する文章を『民俗台湾』に発表し、金関氏と論争になったという(33.)。
最後の拠り所は、他者の文章を読み取る力であり、そうした文章に潜む本質を見抜く感性なのかも知れない。

何を目的とした民俗調査なのか?
誰のためになされた発掘調査だったのか?


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