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藤田1953『朝鮮の歴史』と旗田1951『朝鮮史』 [全方位書評]

前回記事【2013-11-13】で引用した文章で言及された二書を比較してみる。

藤田 亮策 1953 『朝鮮の歴史』アジアの歴史文庫、福村書店
「台湾・関東州・樺太と同様に、朝鮮も総督制であって府県制でないことと、国会議員の選出のできなかったことだけは日本本土との差異であって、半島居住民の第一の不平でありました。しかし徴兵制もなかったが第二次世界大戦には多数の朝鮮人志願兵が活躍し、民間人もともに勝つために身命を捨てて戦った事実を忘れることはできません。今日日本に残る朝鮮人のうちには多くの軍事徴用者が含まれており、戦争犯罪人として、戦勝国に裁判されて日本人とともに巣鴨にいるおおぜいの半島人のあることも思い出すべきだと思います。
三十五年の総督府政治の中には、立場を変えてみると非難すべきたくさんのことがあったことは確実です。民俗習慣を無視してあまりにいそいで日本と同じ法律でしばり、同じ取り扱いをしようとしたことがあらゆる不平の根本と思われます。しかし、府県制度も国会参与も一歩手前まで来たことは、朝鮮人が上下協力して半島文化の進展に努力し、日本の八十年かかった水準に、その半分で追いつこうとした努力を買ってやるべきです。世界のどこに朝鮮のような三十年そこそこで産業・工業が日本と同程度に発達し、水利・農産・重軽工業・電気・繊維の諸工業が、欧州の諸国に劣らぬ程度に到達した国があるでしょうか。日本人の努力と投資と、国力そのもののためであることはいうまでもありませんが、朝鮮人みずから築き上げて来たその勤勉をも賞賛すべきであります。その点は公平な欧米人はたぶんきっと十分に認めてくれているはずです。」(119-120.)

ほんのちょっとした語句に、その人の立ち位置、目線というものが顕れてしまう。
「朝鮮半島居住民」に対して徴兵制が適用されなかったというのは、本当だろうか?
「民間人とともに勝つために身命を捨てて戦った」のは、その多くが「日本が勝つため」ではなく「日本に勝つため」であるという認識が全く欠落していることに驚く。

「たやすく妥協しない堅い信念をもつ厳正さがあるとともに、思いやりのふかい温情さがあった。豪放な面があるとともに、こまかいところにもよく気のつく細緻な神経もあった。大きく広い視野に立つ一面、一つの事物にもこまかく寸法をとり、一枚一枚の用紙にも鉛筆にも気をつかう心情があった。法隆寺の金堂の鴟尾の問題なども簡単に妥協しない堅い信念の一端を語るものであろう。
その文章は、氏の人がらを示すようにがっしりした堅実な内容があるとともに、格調の高い名文でもあった。」(斉藤 忠1981「学史上における藤田亮策の業績」『藤田亮策集』:8.)

旗田 巍 1951 『朝鮮史』岩波全書154、岩波書店
「たしかに朝鮮の政治・経済・社会・文化は日本の統治期間中に驚くほど成長した。かつての両班政治に代って組織的な官僚政治が成立した。かつての未開な土地に大規模な工業が生れ、すぐれた水利施設をもつ大農場があらわれ、近代的運輸通信機関が整備され、大都市が成長した。いたる所に学校が建てられ、堂々たる帝国大学ができ、すばらしい美術館・博物館がつくられた。とくに北鮮における巨大な水力発電施設は目を見はらせるものである。これらの点を考えると、敗戦後の今日になっても未だに朝鮮統治の功を誇る人がいるのも、もっとものように見える。しかしこのような立派な設備がどれだけ朝鮮人に利用され、また朝鮮人の生活を向上させたかとなると、非常に問題である。何よりも日本の統治下に、莫大な窮民がいたことを忘れてはならない。1934年1月の農村振興指導者主任打合会で、宇垣総督が朝鮮農民の恐るべき惨状について、端境期になると食料が足らず山野に草根木皮をあさる悲惨な農民(春窮農民)が農家全体の5割に近いと述べている。これは総督の言葉であって、事実はもっとひどいのであるが、総督すら朝鮮農民の惨状を認めざるを得なかった。(中略)
日本人が食った米は、かかる困窮農民が作ったものである。かれらが地主に渡した高率な現物小作料としての米、また、より安い粟を買うために米商人に売り渡した米が、われわれ日本人の主食となった。日本の食糧政策はかかる状態を条件にして成立していたのである。(中略)
日本の統治は朝鮮に大きな新しいものを築き上げた。同時に社会の底に多くの犠牲者を生んだ。このことは、一方では日本の力に依存する少数の朝鮮人を生みだすと同時に、日本の支配に不満な多数の朝鮮人をつくりだした。内鮮一体化・皇民化の運動によって、朝鮮人から朝鮮人としての意識を奪い去ろうとしたが、それによって多数朝鮮人の不満を除くことはできなかった。朝鮮人の反抗運動は、日本が敗退するまで根強くつづけられた。」(226-227.)

つまるところ、その地に生きる人々に対する眼差しの在り様に帰着するのだろう。

「私が朝鮮で育ったのは、まさに植民地の子として育ったわけである。暗く重苦しい気がするのは、後になって日本の朝鮮支配の実体を知ってからの意識の投影もあると思うが、それだけではない。当時の朝鮮人の姿が幼い私の目に映っていたからだと思う。
実はこのような少年時代の印象は、その後も私の朝鮮認識の底にたえず存続した。少年時代の私は、明るく溌剌とした朝鮮人の姿を見ていない。自然の美は目にうつっても、人間の美を知らなかった。こういう印象は朝鮮認識にプラスするものではない。私は長いあいだ、こういう印象をふっきることができなかった。」(旗田 巍1978「朝鮮史研究をかえりみて」『朝鮮史研究会論文集』、1983『朝鮮と日本人』所収)


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