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裵2002「朝鮮の過去をめぐる政治学」 [論文時評]

裵 炯逸(藤原 貞朗訳) 2002 「朝鮮の過去をめぐる政治学 -朝鮮半島における日本植民地考古学の遺産-」『日本研究』第26号:15-52.
(Pai, Hyung Il 1994 The Politics of Korea's Past: The Legacy of Japanese Colonial Archaeology in the Korean Peninsula. "East Asian History" No.7:25-48.)

「(前略) 朝鮮の国粋主義的な歴史家のみならず、日本の研究者も、文化交渉を説明するためには、いまだに、一方から他方への「征服」や「影響」という考え方を基礎に置いているのである。こうした思想に囚われている限り、帝国主義的で植民地主義的な伝統に揺さぶりをかけることはできないであろう。かつて私は、今日の朝鮮先史研究者の研究を「侵略ノイローゼ」と呼んだことがあった(115)。」(34-35.)
注(115) 「侵略ノイローゼ」の定義は私の独創ではなく、グラハム・クラークの古典的な論文があることを想起して頂きたい。クラークは、イギリスの先史に関して方法論的な解釈格子が欠如していることを嘆いた。イギリス考古学の方向性を変えた革新的な著作において、彼は、イギリスの古代遺跡の起源を全てヨーロッパ大陸に求めるイギリス考古学者が「侵略ノイローゼ」に冒されていると診断した(Grahame Clark,"The invasion hypothesis in British archaeology" Antiquity40, 1966, pp.179-9, at 172.)。この病状は、今日の朝鮮と日本において依然として存在し、私の考えによれば、両国の学者たちは、いまだに、過去百年の政治的併合と植民地支配、文化的抑圧、そして朝鮮戦争の南北分断が残したトラウマと傷痕に喘いでいる。彼らは、二千年前の遠い過去をも、19世紀から20世紀にかけて有効であった「帝国主義的」かつ「植民地主義的」な解釈格子や方法論、用語法によって理解しようとしているのである。」(47.)

在米の韓国人研究者による「日本植民地考古学」に関する一文であるが、以下のような文章を見るにつけ、少なくとも日本人研究者に「ノイローゼ」を心配するのは杞憂、否むしろマイナスでしかないような気がする。

「かつて、日本統治韓半島における日本人研究者に対する評価は、きわめて単純であった。「進んだ」欧米・日本と「遅れた」朝鮮という二元論的なスタンスで見て、すべての朝鮮文化、美術などを低く評価しかしない植民地主義の代弁者であると。その見方をとり続けた人々も存在したと認めた上で、藤田亮策のように、異国趣味的な「まなざし」を意識しつつ、朝鮮典籍の世界に身を潜めることで、朝鮮の文化的アイデンティティーの追求を図った人間もいたと主張したい。それも戦時期の非常事態が宣言される中で、強圧的な皇国臣民化が押しつけられ、朝鮮の人々のみならず日本人の日常生活さえも窮乏するなかで、藤田亮策のみならず末松保和ら書物同好会の多くが朝鮮典籍に没頭することで、積極的に、戦争に対する「非協力」な姿勢を示したと理解している。」(松原 孝俊2008「植民地空間京城の「駱駝山房書屋主」藤田亮策 -「朝鮮は『朝鮮』だよ-」『韓国言語文化研究』第16号、九州大学韓国研究センター:8.)

植民地で読書サークルを主宰したことが「戦争への非協力的な態度を鮮明にした」(10.)ことになるのならば、多くの事柄がそうしたことに該当しそうである。

「旗田蘶は、植民地体制下に行われた考古学と歴史編纂のイデオロギーと歴史的背景を組織的に明らかにした最初の歴史家であり、彼による朝鮮歴史編纂の重要性は否定しえないが、しかし、彼は、朝鮮古代史を分析する新たな解釈を提出できずに終わった(109)。」(34.)
注(109)では、「紛れもなく、第二次世界大戦後の日本史(ママ)編纂に最も貢献した歴史家」(46)と述べられているが、著者の旗田評は歯に物が挟まったような曖昧な印象が拭えない。

以下のような評を大切にしたい。
「李 朝鮮戦争で戦火がひろがっていた1952年か53年に、「われこそ朝鮮をよく知っている」といういわゆる朝鮮研究の権威とされる人たちの、朝鮮に冷たい発言が多かったでしょう。歴史では、たとえば藤田亮策の『朝鮮の歴史』とか、あるいは三品彰英が戦前に出した『朝鮮史概説』を増補版にして出版した。これは戦前の朝鮮総督府が出した『朝鮮のしおり』の流れをくむもので、植民地支配の反省どころか、朝鮮の自主性を否定し、いかに朝鮮が遅れてだめな国であるかという立場で書かれている。
姜 同じ時期にそれに対するアンチテーゼとして旗田蘶さんの『朝鮮史』が岩波書店から出て、大きなショックでした。今までの植民地史学の流れとは対立したものが出たわけですから。もちろん植民地主義の流れも、それに対する流れもトータルに見ていかなければならないと思います。そして取るものは取る、捨てるものは捨てるという批判的立場こそ大事ではないでしょうか。
李 韓国の学者の姜萬吉さんとか李基白たちは朝鮮動乱で釜山へ避難していたときに、誰が持ってきたのか分からないけど、旗田さんの『朝鮮史』が一冊入ってきて、コピーもない時代で、それをみんなで回し読みをしたと話してましたね。そして旗田史学を乗り越えねばと、韓国の若い研究者がふるい立ったそうです。本書にもふれているように、旗田さんは朝鮮人の痛みを知るための姿勢が戦後も一貫していましたね。」(姜 在彦・李 進煕1997「刊行にあたって」『朝鮮学事始め』:253-4.)

「取るものは取る、捨てるものは捨てるという批判的立場」こそが、最も困難な道程である。

なお李 洋秀氏には本論の感想と共に、「豆満川上流にある南満洲の通溝地域」(25.)は、「鴨緑江上流にある…」の誤りとの指摘を頂いた。記して感謝する。


タグ:植民地 侵略
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