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濱田1935「朝鮮に於ける考古学的調査研究と日本考古学」 [論文時評]

濱田 耕作 1935 「朝鮮に於ける考古学的調査研究と日本考古学」『日本民族』東京人類学会編(編集代表者松村瞭)、岩波書店:441-461.(『濱田耕作著作集』第一巻 日本古文化:277-289.所収、但し著作集では刊行年が1936年とされている。)

「東京人類学会創立50年記念」と銘うって出版された論集所収の論文、著作集の第一巻にも収録された著者の代表的な論考である。
その冒頭の一文。 

「明治の中頃日清戦争の前までの日本の地位国力は、今日から想像出来ない程貧弱なものであつて、政治的経済的の発展の如きも、朝鮮半島や支那に於いて阻まれ勝ちであつた。従つて此等の発展に追従して、常に其の後について行く学術的研究の如きも、其頃までは唯だ日本内地に跼蹐して、此等隣接地に進出すると云ふ態度の殆ど見られなかつたことは止むを得ない。考古学の研究も亦其の一つで、日本の研究は日本の資料だけでやつて行き、朝鮮や支那の事などは比較する必要をすら、余り感じなかつた風であつた。然るに此の日清戦争の結果は、東亜に於ける日本の地位を向上せしめ、朝鮮に日本の勢力が確立するやうになり、この政治的発展につれて、朝鮮に於ける考古学的研究が著(着)手せられるに至つたのである。」(443.)

「跼蹐」(きょくせき)とは、跼天蹐地の略で「恐れ慎み、体を縮める」といった意味である。
一言で言えば、明け透けな「侵出考古学」の表明である。

濱田1938「日本は躍進する 長期戦争と文化工作」の全文を引いて、「やはり、濱田のリベラルさと「朝鮮古跡研究会」や「東亜考古学会」の委員としての立場からくる戦前特有の他民族に対するまなざしや差別意識は別物(両立可能)なのであろうか」(福田敏一2005『方法としての考古学』:129.)との感想も述べられている。 

濱田は、1912年に満洲から朝鮮にかけて調査旅行を行なう。
「体格は支那人よりも大きいのが多いが、一体に眼が釣り上がって天神髭を生やして、何となく陰鬱な恨めしい亡国的の顔をしてゐるのが目につく。婦人も色の黒いのが多く、支那人の美しく化粧をして野ら仕事に出てゐるのに比して著しく見劣りがする。併し畠仕事をする農夫も、店頭に沓直しをする職人も皆冠を戴いてゐる所などは、職人画の画巻を見ると同じである。女子が短い上衣を著し、ダラリと乳を出してゐる所などは、『病草紙』で見たことがある。我輩は此の珍しい光景にはじめて接したので、終日車窓から顔を出して、沿道の景色や人間を貪り見た。」(1912「満洲より朝鮮を通過して」『美』第10月号、『濱田耕作著作集』第七巻青陵随想に収録:180.)

引用していても、ウンザリする文章である。

「我等の西隣には欧洲学者と競争す可き支那といふ考古学上の未開の大原野を我々は有してゐるのである。朝鮮、満洲といふ屈強な土地を控へてゐるのである。此東亜の文明の淵源を明かにし、支那内地に吾々の学術的勢力を発展することは、日支親善の意義に協(かな)った、我々の天与の使命では無いか。」(1917「我国考古学の将来」『大阪朝日新聞』3月7・10日号、『濱田耕作著作集』第七巻青陵随想に収録:221-2.)

民族蔑視は、当然のことながら夜郎自大に繋がる。

「今や日本の考古学的研究は、それ自身の範囲に立て籠もつては、到底其の目的を達することが出来ない時代であつて、朝鮮半島の研究―否な更には東亜全体のそれを打つて一丸として、比較綜合することに由つてのみ企及し得ることは、今更私が取り立てゝ云ふ迄もない常識であり、斯の様になつたことに就いては、私はたゞ此の二三十年間に於ける学界の進歩に驚かされる次第である。」(461.)

こうした認識は、正に当時の「常識」であったのであろう。
問題は、このような「常識」を78年後の私たちがどのように評価し、今に引き続く植民地的遺産(不当にもたらされた考古資料)をどのように扱うかということである。


タグ:侵略考古学
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