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井上2013『明治日本の植民地支配』 [全方位書評]

井上 勝生2013『明治日本の植民地支配 -北海道から朝鮮へ-』岩波現代全書011

「1995年7月、北海道大学正門近くの歴史的建造物、古河記念講堂1階東端の研究室の本棚の上に、段ボール箱が放置されているのが発見された。
その中に、古新聞にくるまれた6体の頭蓋骨が、乱雑に入れられていた。一番上にあった一体の頭蓋骨の表面には、「東学党首魁」と直に墨書され、添付された書付には、韓国珍島で蜂起した東学農民軍首魁の梟首された遺骨の一つで、1906年に珍島で「採取」したと、署名入りで記されていた。
(中略)
本書は、もともと調査委員会で私が執筆した1996年の『中間報告書』と、97年の『報告書』、そして今日まで遅々として続けてきた調査をもとにしたものである。」(はじめに)

「遺骨発見の直前、1995年3月に退官した、考古学を専門としていた文学部所属の教授がこの遺骨を放置していった。教授の証言は二転三転する。はじめは関わりを否定した。結局関与を認めたが、遺骨の由来について、前任の元理学部教授から引き継いだとだけ述べた。それ以上、文学部からの度重なる問いかけにも由来を述べないままで、かねての持病で入院した後、2007年2月に亡くなった。」(6.)

何故か、この部分だけ個人名が曖昧なままである。
本書のもとになった『報告書』(未見)では、異なるはずなのだが。

「「北大文学部が設置した『旧標本庫』人骨問題調査委員会」は昨年8月8日付けで調査報告を回答していますが、それによれば、退官した吉崎教授は「問題の人骨についてはまったく知らなかった。……おそらく自分の前任者の名取武光助教授から引き継いだものに違いない。しかし人骨は自分の研究には無関係なので、全然関心がなかった。だから気が付かなかったのであろう」と述べています。」(山本一昭・小川隆吉1996「人骨研究にみる北大の侵略・植民地主義」『飛礫(つぶて)』第11号:13.)
「北大人骨問題はまさにこの歴史認識の弱さの中にある。まず、ずさんなままに人骨が放置されていた旧標本庫の管理・使用者が、吉崎昌一前教授(人類学、発見直前の3月に退官)であったのは皮肉であった。それは吉崎氏がアイヌ民族の「理解者」として、最近はしばしばアイヌ民族の集会に関わっている人物だからである。吉崎氏は北大調査委員会の問い合わせに、「新しい人骨は研究対象としていなかったので、関心をもつことがなかった」と答えている。何ということか。だから人骨の存在を知っていながら(氏は1969年頃、確認している)、ずさんなままに放置しておいたというのか。」(林 炳澤1996「民衆の恨(ハン)が明らかにした人骨 -歴史認識の弱さを問う-」『飛礫(つぶて)』第11号:29.)

「この放置遺骨について、文学部を訪ねられたアイヌ民族の運動家小川隆吉さんと山本一昭さん、ウイルタ協会の田中了さん、在日韓国人の市民運動家林 炳澤(イムピョンテク)さんら四人との話し合いがもたれた。ここでは紙幅が不足しているので経緯は省略するが、文学部調査委員会は、調査と返還に努めることなどを明言した。」(13.) 

本件は、人骨という対象、段ボール箱の中に古新聞にくるまれて、という保管状況、朝鮮・韓国あるいはウィルタという由来性からこうした扱いがなされた訳だが、同じような構図は<もの>資料である文化財についても全く同様で、同じような取扱いがなされるべき、といったことを、2013年10月12日付『朝日新聞』朝刊15面の「文化財の居場所」というインタビュー・オピニオン欄の河野さんの下の方で、「他国由来 まずは把握が必要」との小見出しで少し述べたのだが、掲載された画像共々お恥ずかしい限りである。

「居場所」とは、<もの>があるべき適切な場所というほどの意味と思うが、現在求められているのは<もの>が今置かれている場所が本当に適切な場所なのかについて、関係者すなわち直接的な関係者である<もの>の所有者や所蔵者だけでなく、<もの>が置かれている地域社会全体の構成者それぞれが、考えるべき問題であることを強調したい。
目の前にある<もの>を通じて、その<もの>を作り、使った人々のことを思うだけでなく、その<もの>を今ある場所に運び置いた人々のことを考え、更にはその<もの>が今ある場所に置かれている状態を容認している人々、すなわち私たち一人ひとりについて考えることである。

「自分の研究には無関係」とか「研究対象とはしていない」といって「関与しない」という関与の仕方が、最悪の関与の仕方である。
なぜなら、常に心の奥底で「やましさ」を抱え続けることになるから。
無理矢理問題を封印して、これからもそうした「やましさ」を抱え続けていくのか、それとも問題解決のためにお互いが協力しつつ新たな関係を構築していこうとするのか、そのことが今、問われている。


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コメント 4

鬼の城

>なぜなら、常に心の奥底で「やましさ」を抱え続けることになるから。
無理矢理問題を封印して、これからもそうした「やましさ」を抱え続けていくのか、それとも問題解決のためにお互いが協力しつつ新たな関係を構築していこうとするのか、そのことが今、問われている。

性善説ですね。私は自分の研究以外のモノに関心がない連中には、「やましさ」などの人間性による反省的思考は一切ないと思います。心の底には「自己の研究中心エゴ」があるだけです。だから、いくら問題がある、とか、この問題を解決せねばならない、と提唱しても関心を示さないし、何が問題なのかわからないのです。学問以前の倫理観もない、と思います。
by 鬼の城 (2013-10-17 07:45) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

性善とか性悪とかに関わりなく、歴史に対して誠実に向き合うよう自他に求め続けることが、私の戦後責任です。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2013-10-17 19:52) 

カラス天狗

伊皿木さんの戦後責任の発露は、「やましさ」を抱えている人に対しての呼びかけとうけとります。「気づき」を促すことは必要です。
私自身は、性善? そうあってほしい、そうであるとも思います。
「鬼の城」さんが足繁く通う原発テントムラに集結する人の多くも、そういう善意の人々なのではないでしょうか。違いますか?

by カラス天狗 (2013-10-17 23:17) 

鬼の城

五十嵐さん、私の言う性善説などは深い意味はなく、五十嵐さんの「歴史に対して誠実に向き合うよう自他に求め続けること」と言う趣旨と同じです。

カラス天狗さん、あなたのご意見である「『やましさ』を抱えている人に対しての呼びかけとうけとります。『気づき』を促すことは必要です」との趣旨にも賛成ですが、この「気づき」をどうすれば、例えば考古学の専門バカ連中が認識できるのか、この点が壁となり「気づき」を阻止しています。また、「気づき」がある人も少数派です。

「原発テント村」ではなく「反原発テントひろば」です。そこでも、「善意の人」が多くの人が来られますが、「少数派」です。この、「少数派」をどうすれば「多数派」にできるのか、議論していますが「見えない壁」を感じます。今日も、行きますが。。。
by 鬼の城 (2013-10-18 09:09) 

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