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小林2013「阿部祥人先生と最上川プロジェクト」 [論文時評]

小林 圭一 2013 「阿部祥人先生と最上川プロジェクト」『山形考古』第43号:97-102.

「お仲間林遺跡の第1次発掘調査が終了し、研究室に戻り大洞貝塚の土器を図化していて、帰途三田界隈の居酒屋に誘っていただいた時と記憶しています。阿部先生から、「型式編年は慶応がする研究ではない。他の大学に任せればいい。」と言われたことが忘れられません。若気の至りで酔いに任せて、私が気に障ることを言ったのだと思います。温厚な先生には珍しく、強い口調で言われました。」(100.)

やはり、という思いを禁じ得ない。
同級生である筆者に対してなされた故人の発言は、私の記憶の中には残っていない。しかし様々な形で私に影響を与え、私の考え方の基盤を形成したであろうことは確実である。その当時は、こうした姿勢について何の疑問も抱かず、ある意味で当たり前のように考えていたのだが、それが「日本考古学」という枠組みの中では、とんでもない思い違いであることを知るのは学窓を巣立ってしばらく後のことである。 

「郷里山形の研究現状に対する憂いが、先生を論争という先鋭的なスタイルに駆り立てたのかもしれません。私には論争の当否を論じることは出来ませんが、直近の山形県埋蔵文化財センターの刊行物の年表からは、旧石器時代の遺跡として富山遺跡の名称が削除されていることを紹介しておきます。」(100.)

明確な賛否は示されず、いつの間にかそれまで掲載されていた固有名詞が消失するというかたちで、組織の意思が消極的に表明されるという典型的な日本的組織の対処方法。

富山遺跡の前期旧石器時代説批判は、「お仲間林・上野A遺跡の成果」(99.)は勿論のこと、それ以上に沼ノ平遺跡に至る最上川流域の一連の「前期旧石器研究」が背景にあったことは明らかである。
最上川プロジェクトがスタートする時に、まず故人から示されたのは山形県立寒河江工業高等学校が1967年から1971年にかけてクラブ活動の成果として公表した『人工のはじまりの研究 -西村山地区先縄文石器を中心として-』という小冊子である。その第4集(1970)の副題は、そのものズバリ「寒河江市富山遺跡の発掘と旧石器の追求」である。
人為によって縄文石器が旧石器包含層に埋め込まれた所謂「捏造石器問題」と、縄文包含層の縄文石器を前期旧石器とする「前期旧石器問題」の複雑な絡み合いを一つずつ解きほぐしていかない限り、日本で発生した「前期旧石器捏造問題」の全容は明らかにならないだろう。

「強い目的意識を持って発掘調査に臨み、そこから得られたデータを徹底的に分析する研究姿勢が、三田考古学の神髄であることを身をもって示していただきました。惰性に流されそうになった時、あの灼熱の中でのお仲間林遺跡の調査を思い出して、自身を奮い立たせたいと思います。」(101.)

研究業績の多寡、著書の多さといった目に見える学問的な指標だけでは計ることのできない、その人の奥深さ(そう、それは例えばその人が与えた「影響力」といった言葉でも表現しうるだろう)は、こうした追悼文に示される想いの質に表れることを知らされた。
私も筆者と同じように、「あの灼熱の中でのお仲間林遺跡」を原点として歩んでいく(【2013-01-16】、【2013-03-06】)。


タグ:追悼
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