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偲ぶ会 [総論]

日時:2013年 3月 2日(土) 15:00~17:00
場所:慶應義塾大学 三田キャンパス 南校舎4階カフェテリア

1985年に大学院に進学した時に、慶応に赴任されたので、最初の教え子ということになります。但し不肖の弟子です。だから本来ならば「阿部先生」と呼ぶべきなのでしょうが、最初にお会いしたのは、まだ東京都埋蔵文化財センターが多摩センター駅西側のコミュニティ館という場所に間借りしていた時代に、その係長席でご挨拶した時でしたので、私の中ではいつまでも「阿部さん」なのです。

早速、寒河江の実家に泊めて頂いて、二人で山形県内の著名な遺跡をレンタカーで周り、翌年に計画していた発掘調査地の目星をつけるというひと夏を過ごしました。そして86年のお仲間林、87年からの藤沢と調査を一緒に行なうことになりました。

山形の考古誌は結局、藤沢に持ち越されて、阿部さん独自の指導力ゆえに「ヤキモキ」することになりました。最近はよく知りませんが、これは恐らく今も変わらないのではと思います。
手取り足取りなどという指導法とは無縁の、ある意味では放任、しかし事務的な手続きなどの裏方の仕事に徹して、私たちは自由に自分の思うように仕事ができました。今にして思えば、自らが積極的に動かず、ただ自分の背中を見せることで、周りが動かざるを得ず、結果的に教え子たちを独り立ちさせるというやり方だったのではないかと勝手に想像しています。
そして私個人にとっては、知らず知らずに受けていたその影響というのは、甚大なものがあったと思わざるを得ません。

本日配布された『阿部祥人先生の歩まれた道』の著作リストを見ても、ある意味ではとりとめがなく、雑多なようですが、私から見るとビシィーと一本、線が通っている。どういうことかと言うと、それはある特定の考古資料について時間と空間の網目を特定するという編年研究、あるいは特定の遺物を集成してその文化史的な位相を明らかにするといった論考は全くなく、全て私の言うところの「第2的」なもので一貫している、ということです。
第2考古学をあたかも自らが創出したかのように思い込んでいたのですが、実は本当の生みの親は別にいた、私は単にそれに名前を付けただけだったのかも知れないと思わされました。

ある人は早すぎた死を悼んで、「志、半ばにして」と言います。あるいは「思いを残して」とも。
しかし私は、人間の生と死、生き死には、人の思うままにはならない、ましてやその人の志しや思いなどを他者が勝手に思い測ることなどできるのだろうかという気がしてなりません。
平均寿命を超えて生きたなら、あるいは死因が老衰であったなら、それで志が全うされるのでしょうか?

阿部さんの生は、阿部さんの生として完結していた。
私はその背中を見て歩いてきましたが、実は阿部さんが何を見ていたのか、何を求めていたのかについては、後ろを歩く者には分かりえない、最後まで決して分からないだろうという気がしています。

ただ言えることは、その飾らない姿勢、そしてどんな人に接するときにも決して分け隔てをしない態度、これは多摩センターのコミュニティ館で一人の専攻生として最初にお会いした30年前から最後にお会いした時に至るまで、見事なまでに一貫していた、そしてそうした姿勢を示す人は決して多くないということ、そうした人に出会えて教えを受けることができたこと、これは私の中の何事にも代えられない、かけがえのない贈り物です。

こうして受け取ったものを、次の人に手渡していく。
そのためにも、私に定められた時まで、残された人生、生きるに価する生を生きる。
私に出来ることは、そんなことぐらいしかありません。

長い間、ありがとうございました。


タグ:追悼
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