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「虐殺事件の裁判記録からわかること」 [研究集会]

関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会 第7回学習会
日時:2013年3月9日(土) 16:00~18:00
場所:在日韓人歴史資料館 セミナー室(東京都港区)
内容:「虐殺事件の裁判記録からわかること」(藤野 裕子)
主催:関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会

「近年、関東大震災時の朝鮮人虐殺事件の裁判記録が、東京弁護士会・第二東京弁護士会合同図書館に所蔵されていることがわかりました(現在はマイクロフィルム化し、早稲田大学図書館で公開中)。加害の当事者の供述からなるこの史料は、虐殺の実態や国家権力の関与を、事例に即して解明・検証しうる、極めて貴重な史料といえます。この史料の性格や内容、判明する事実、今後の課題について、お話ししたいと思います。」(案内チラシより)

「今まで点ひて居た朝鮮人の家の蝋燭が消へ、急に二人飛び出しました。最初の一人は三人か四人の人に滅多切りにされ、私は二番目にビール瓶か何かを投げながら出て来た朝鮮人の前から腹の辺りを目掛けて槍を突きました。
此の時、火の見櫓の方面から一度にワーッと四・五十人の人が手に手に日本刀などを振り回して押し掛けて来、その朝鮮人を滅茶苦茶に遣っ付け、当り構わず刀を振り回すので、私は二度目の槍を付ける事も出来ず、反って自分の身が危険になりました(以下略)」[学習会配布資料より、原文カタカナをひらがなに置き換え、一部修正]以下同

最初に切り付けた加害者ですら身の危険を感じる程の狂騒状態である。

「〇〇は表の方から這入り、私は裏の方から這入って行きますと、鮮人(ママ)弐名がアグラをかひて居りましたから、私は内一名の朝鮮人を後から日本刀を持って後頭部を一つ切り付けますと、鮮人(ママ)はそのまま後ろの方に倒れて、びちびちして居りましたから、足の処をまた三つ計り切り付けますと、死んで仕舞ひました。」

「びちびち」という当事者しか表現し得ない形容句が、リアルである。

「〇〇が云ふ事には、未だ七人しか死んで居ない、後に二人居るが、其者が何処かへ行って報告をし、軍勢を引き連れて来る様な事があっては、今度は自分共が遣られるから、今晩は警戒して貰いたいとの事で、五・六人で火を焚きながら夜明けまで警戒致しました。」

結局、四軒長屋の一軒(6畳)に9名の朝鮮人が身の危険を感じて身を寄せ合っていたところを取り囲み、9月3日夜に7名殺害、辛うじて脱出した1名も翌4日朝、近くの茄子畑で殺害される。

自警団も均質ではなかった。地元の在郷軍人会・消防団・青年団などに所属するグループが中核をなし、他所からの移住者たちは中核グループに加わることができなかった。そうした人々は在郷軍人の制服に類似した茶褐色のコートや「赤線の入った兵工の帽子」などを身に付けることで、「秩序を守る側の人間であることを全身でアピールしていた。」
仲間意識を誇示し、進んで殺害行為に加わっていく。

流言蜚語による恐怖から憎しみを増大させ、同胞を守ることを理由に残虐な殺害に及び、更にそのことが報復の恐怖を引き起こし、何とかその場から逃げおおせた人すらも付近を徹底的に捜索して殺害に及ぶという執拗さをみせることになる。
ヤラレルからヤル。
妄想から生じた恐れと憎しみの連鎖である。
何が原因なのか?

しかしこうしたことから目を逸らし、有耶無耶にしようとする気配が濃厚である。

「都教育委員会は24日、都独自の高校日本史の副読本「江戸から東京へ」で、1923年の関東大震災直後に起きた朝鮮人虐殺に関する記述から「虐殺」などの文言を来年度版から修正すると発表した。…
都教委高等学校教育指導課が、副読本の「誤解を招く表現」を再検討。朝鮮人虐殺の記述変更について、担当者は「いろいろな説があり、殺害方法がすべて虐殺と我々には判断できない。(虐殺の)言葉から残虐なイメージも喚起する」としている。副読本を監修した専門家には相談しなかったという。
朝鮮人虐殺をめぐっては、国の中央防災会議は08年、関東大震災の報告書で、流言による殺傷事件の対象は朝鮮人が最も多かったとし、「虐殺という表現が妥当する例が多かった」と認定している。…」(『朝日新聞(東京地方版)』2013年1月25日)

今年は、90周年である。
「虐殺」が「誤解を招く表現」であるのならば、残虐な事件から残虐なイメージを喚起することがどのような「誤解」なのか、担当部署は理路整然とした説明を示す責任があるだろう。

*註: 一部本文を修正いたしました(2013年3月29日)。
当日の発表内容については、2013年6月『関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会 会報』第6号:5-12.に掲載。


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コメント 4

鬼の城

確か1972年か73年ごろ全国考闘委で、明治大学考闘委からの提案を受けて、荒川入管闘争委員会と連携して「荒川河川敷の発掘調査実施計画」があったと記憶しています。

土地の古老や言い伝え、および在日朝鮮人の生き残りの人の証言などにより、荒川河川敷に関東大震災で虐殺された朝鮮人の人たちを「埋めた」と言う話がありました。それを、発掘調査をして本当かどうかを明らかにする一方で、本当に「虐殺され埋められた朝鮮人の人たち」が明らかになれば、現代史の解明になるという位置づけだったと思います。もちろん、それをもとにして歴史的犯罪行為を明らかにして、責任追及なども行う予定でした。

今思うと返す返すも残念なことだと思っています。

しかし、荒川河川敷は国有地、都有地、私有地となっており、いずれにしても土地の所有者の許可が出なくて発掘調査ができなかったと記憶しています。また、都教委が「埋蔵文化財と認定しないこと」も発掘調査ができなかった要因だったのです。
by 鬼の城 (2013-03-14 01:13) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

「「三メートルじゃ出ないよ」とか、「その場所ではなく、土手のなかだよ」といろいろな意見がでる。しかし現状では堤防までは崩せない。九時すぎになると、試掘の総指揮をとる岡本勇先生(立教大学講師・考古学)をはじめ、発掘作業の担当者が揃ってきたので、四人一組の班を編成し、10時ごろから、穴の底へ下りて手掘りを開始した。」(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会編1992『関東大震災・朝鮮人虐殺から70年 風よ 鳳仙花の歌をはこべ』教育史料出版会:29.)
1982年のことでした。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2013-03-14 20:10) 

土方歳三

「恐怖」こそ人を残虐にさせるものだと感じます。虫に対する人の残虐性がそれをよく表してるとある作家が書いていましたが、その通りだと思います。震災と混乱という非現実的な空間の中で、人々が恐怖と何に動かされ残虐な行動に走ってしまったのか、本当によく考える必要があると感じました。
by 土方歳三 (2013-04-24 14:52) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

虐殺が虐殺でないとか、侵略が侵略でないとか、国際的な対話の基盤を掘りくずすような言説が臆面もなく発せられるコンテクストをよくよく考えなければなりません。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2013-04-25 20:19) 

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