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自画像、あるいは若き友人への書簡 [雑]

ある人は、私が石器を題材とした論文を発表していることをもって、石器研究者とみなしています。これは、ある意味で正しく、また別の意味で誤っているようです。
どういうことでしょうか?
もちろん石器は好きだし、石器を作るのは更に好きなのですが、私にとっての石器は、そして石器を題材とした論文は、あくまでもある考え方を展開し説明するにあたっての素材であり、手段としての石器であり、極端なことを言えば、石器でなくとも土器でも木器でも金属器でも何でも良いとも言えるのです。
もし土器の世界で、「砂川的な神話」すなわち創始された当初は画期的なアイデアであったにも関わらず、それが権威化するに従い誰もそのことに対して批判的な意見が提出できなくなるといった事柄がまかり通っており、そのことを是正しなければならないとしたら、私は土器を題材とした「砂川闘争」を繰り広げることでしょう。ただ土器世界に詳しくないために、現時点では石器を対象としているのです。

自動車評論家という人々がいます。あるいはモーター・ジャーナリストとでも言うのでしょうか。
彼らにもそれぞれ得手不得手があることでしょう。ある人は、タイヤやホイールについて、別の人はシートなどのインテリアやデザインについて、さらには燃費やサスペンションなど、評価する項目、着眼点は人それぞれです。
私は、エンジンについて論評します。それはエンジンが車という作品において最も重要なパーツと考えるからです。

ある著作、例えば日本の石器研究に関する著書について論じる場合に、どのような視点から評価するかは、その批評をする人の立場によって、当然のことながら視点、書き方は異なってくるでしょう。もしその作品が、私の言う第1考古学的な立場によるものならば、私の立場、すなわち第2考古学的な立場からなされる批評は、殆ど介在する余地がないとも言えます。
なぜならば、私は石器研究者である以前に第2考古学者だからです。

エンジン周りについて、例えば遺物集中部や「文化層」の区分方法といった分節単位の設定、製作・搬入の基準、接合と使用痕跡の相互関係、<遺跡>問題については、第2考古学的立場から論評することができます。電動ハブラシから扇風機・耕運機、そしてスペース・シャトルに至るまで。
しかしサスペンションの具合とか、フロント・デザインの良し悪し、前照灯の照度といった「第1的」な事柄については、私よりもそれぞれの専門家が適切なアドバイスをしてくれることでしょう。
なぜならば、私は石器研究者である以前に第2考古学者だからです。

「日本考古学」すなわち現在の日本において主流である第1考古学では、先行研究における「ひび」あるいは「欠け」といったものを探し、その「ひび」や「欠け」を埋めることに腐心する、せいぜい現在までに積み上げられたレンガに更に一つ上積みすることが目的とされています。その題材は、武蔵野台地南部でも、東北地方でも、インドネシアでも、アルメニアでも同じ「型」です。
それに対して、第2考古学は第1考古学に存在する「ひび」や「欠け」を見出し、何が原因でそうした「ひび」や「欠け」が生じたのか、内部に至るまでその「ひび」を押し広げてその要因を探求します。それが「致命的」であれば、新たな対象を作り上げるべく努めます。その「ひび」については、日本でもアルメニアでも、恐らく共通のものでしょう。
第1と第2では、対象に対する姿勢、対し方が全く異なり、真逆なのです。

考古学は過去の痕跡を現在の私たちが掘り出し解釈するという2つの時間に跨る営みです。
掘り出される痕跡は一つであったとしても、そこから復元される過去は幾通りにもなるのです。
単に掘り出された過去を撫で回すだけでなく、撫で回す私たちの在り方、撫で回し方をこそ考えなければならないのです。
これが「第2考古学」ということの意味です。
「他人の目の塵は見えるのに、自分の目の丸太に気付かない」という言葉があります(マタイ書7章)。
自らの視線(まなざし)を知る事ほど、困難なことはありません。
しかしそのことに気が付けば、その時から世界は違って見えてきます。
新たな見方を知る。
私にとって、学問の喜びとは、こうしたことを意味しています。

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