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なぜ、これが、ここに、あるのか。 [研究集会]

新しいアイヌ史構築・定例研究会
「なぜ、これが、ここに、あるのか。 -文化財返還と「日本考古学-」(五十嵐 彰)
日時:2013年 1月 5日(土) 15:00~17:30(質疑応答・意見交換等含む)
場所:北海道大学 アイヌ・先住民研究センター 1階会議室

病床にいた恩師が「頑張るように」と背中を押し出してくれた研究会である。
共に歩んだ様々な場面を想い起しながら、機上から眺めた茜色に染まる雲海の富士山を決して忘れないだろう。

文化財返還問題に関連して、以下の「考古倫理」を提案した。
考古倫理#1: 盗品を所有することは、恥ずかしい。
考古倫理#2: 返すべき<もの>は、返す。
考古倫理#3: 不正な状態を容認することは、「関与」である。

3点目は、少し説明が必要かも知れない。
一般社団法人 日本考古学協会は、2006年に「倫理綱領」を制定した。
「社会人として」第5項「遺物や美術品の不正取引等の禁止」という項目は、「日本考古学協会会員は、遺物や美術品などの文化財の略奪、不正な取引・譲渡に関与してはならない。」というものである。

これは、実際に自らが直接的に文化財の略奪に関与することを禁じるだけでなく、不正な条件で入手した文化財をそのまま所有していること、すなわち不正な状態を維持し容認していることをも禁じていると理解すべきである。

しかるに…

日本考古学協会2010年9月理事会議事録
報告第67号 国際交流委員会報告
「6月理事会において国際交流委員会に検討が要請された第76回総会時の五十嵐 彰会員からの提言については、当委員会の目的と外れる事案であり、諸外国の例からも一学会が扱うべき事案ではなく国政レベルでの事案であることから、当委員会は検討する任ではないこと」

「当委員会の目的と外れる」どころか、自らが定めた「倫理綱領」に関わる事柄ではないのか!
「当委員会は検討する任ではない」のなら、国際交流委員会の存在自体が日本考古学協会の「倫理綱領」に抵触しているのではないのか!

「アイヌ問題をさけて通ろうとした日本考古学協会は粉砕される。
1975年10月9,10日、札幌市経済センタービルで開催された日本考古学協会(委員長、乙益重隆国学院大学教授)の50年度大会は、「アイヌ問題を故意に欠落させた大会は中止せよ」と叫ぶ全国考古学闘争委連合によって、1日目の大会と2日目の午前中の大会は、演壇占拠によって事実上”粉砕”されたのであった。
全国考古学闘争委員会連合機関紙から引用すると、
「『北海道の長い歴史の中で、大自然と闘い抜いて生き続けてきたのはアイヌだった』とアイヌ人が、高らかに宣言するのを何人も否定し得ない。そして北海道考古学界にとって『アイヌ問題』が避けて通ることのできない課題であることも明白である。私たちは北海道大会において『アイヌ問題』が研究至上主義的なレベルで取り扱われることを危惧している。又、逆に故意に避けて通ることを危惧する。」
と、このように若い考古学研究者によって内部から、日本考古学が告発されたのである。」(結城 庄司1980『アイヌ宣言』三一書房:33.)

質疑応答を通じて考えたこと。
* 考古学という学問の形成過程における帝国主義との抜き差しならぬ親密な関係を深く弁えなければならない。その知識体系は、植民地収奪、侵略行為と密接不離な関係を通じて形成されたものであり、考古学者と植民地権力との癒着によって多くの発掘行為が遂行されていた。
* そうした発掘調査によって得られた資料、不正な手段に基づく資料を収蔵し続けること、現在にまで継続する不正義に対して積極的に正そうとしない、すなわち不関与の態度をとることは、植民地的侵略を容認することに他ならない。それは、現在における不平等を維持することに加担している。
* 私たちがいかに植民地主義的な価値観に浸されているかについて、「なぜ、これが、ここに、あるのか」というフレーズを常に呪文(インカンテーション)のように唱え続けなければならない。そのことによって、強化されるナショナリズムへの抵抗点、足場を築かなければならない。
* 独善的で帝国主義的な「日本考古学」から、世界考古学の動向と呼応した自省的な「日本考古学」へ。そうした意味で、<もの>を示す空間としての博物館の在り方は極めて重要である。
* 現在ある不正義は、是正(リドレス)されなければならない。略奪文化財の返還、返すべきものを返さないで、ポストコロニアル考古学は決して現実のものとならない。
* 自分が専門とする遺物研究だけをしていれば済まされる時代は過ぎ去った。身の回りにある略奪文化財に対する態度表明が、一人一人に対して求められている。これは考古学的な倫理観、道徳的な植民地責任に関わる問題である。

研究会が始まるまで少し時間があったので、構内にある北海道大学総合博物館を見学する。
「北海道大学には、130年以上前の札幌農学校時代から収集・保存・研究されてきた400万点にものぼる標本/資料が蓄積されています。・・・1999年春に開館した北海道大学総合博物館は、こうした北大の多様な研究の伝統を今に伝えるとともに、最先端の研究をさまざまな実物資料や映像で展示・紹介しています。博物館にある「モノ」たちは、「コト」(=事/言)つまり情報とセットになることで、歴史や未来を語ってくれます。来館者の皆様に一つ一つのモノの背後にある「コト」にもぜひ目を向け、あるいは耳を傾け、そこから思いをふくらませてもらえるような博物館でありたいと考えています。」(「館内のご案内」より)

「総合博物館」正面玄関中央のガラスケースの中には、北海道大学の教員が1930年代にヤップ島から持ち帰ったという巨大な「石貨」が、「今では国外に持ち出すことすらできません」と誇らしげに展示されている。


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コメント 6

鬼の白

当時を振り返って、思うことがあります。まず、「アイヌ問題」と言う設定がなぜ「アイヌの問題」なのか。あるいは「アイヌが問題」として受け止められることもある。

問題なのは「日本考古学」であり、この点につき全国考鬪委は「北海道考古学」と地域限定にした。この様に考えると、言うまでもなく「アイヌ差別やアイヌ抹殺」と言うことも当然問題なのだが、アイヌからの視点が欠如しており、これは日本人と言う立場であるが故に、アイヌの立場に立てないと言うのは詭弁だと思う。

少なくとも、日本人考古学の立場は否定できなくてもアイヌの人たちと、事前に十分交流なり意見交換が必要だったと思う。また、北海道での協会開催以降この問題が引き続き継承されていないことも、運動主体のセレモニー的であると今は思う。

「です・ます」調は省略しました。
by 鬼の白 (2013-01-09 11:14) 

間違い

【鬼の白】→【鬼の城】です。
by 間違い (2013-01-09 11:17) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

「俗にアイヌ研究の学者という人の中で、一部の人をのぞいてはアイヌに良くは思われていないような気がします。足しげく村へ通って来て、手間ひまをかけさせ、自分自身は功なり名をとげながら、アイヌがどんなに困っていようとも、助け船を出してくれないものです。
何年か前、そして近年またアイヌ問題がさわがれても、息をひそめてじっとしているだけで、何か一言と新聞社からいわれても”ノーコメント”と手を振るだけで、これは有名な学者ほどそうでした。」(萱野 茂1987「アイヌ研究の先駆者たち」『北方文化研究報告(復刻)』第10冊:15.)
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2013-01-09 20:49) 

鬼の城

コメントを書いてから考え、また当時のことを思い出しました。私達、日本人は「アイヌ問題」という視点ではなく、「アイヌ解放闘争」という視点に連帯し、と同時にアイヌ差別と収奪の(文化「財」の収奪を含む)歴史をアイヌに人たちの立場に寄り添う努力をし(私達がどんなに望んでもアイヌの人たちと鬼字立場に立てない)、連帯すると言うことだと思います。

そして、アジア・太平洋地域の人たちとも同様な立ち位置を確保することだと考えています。殴られて方の人は殴ったことを忘れるが(あるいは意図的に忘れてしまう)、殴られた方の人はその痛みを忘れない、とよく言われますが、その通りだと思います。

戦前、戦中の日本考古学や歴史学、地理学などが現地における調査をした意義は現地に人にも還元され、啓蒙したことは大きいものがあるなどとのたまっている人もいますが「盗人猛々しい」と思います。

それが、今国際問題だけではなく、国内の沖縄・福島の現実として顕在化していると思います。その意味で、戦前から今に至るまでこの病癖は存在し、尚且つ支配の論理の中で「有効性」を発揮しているのだとつくづく思います。
by 鬼の城 (2013-01-10 10:44) 

鬼の城

訂正。上から4行目。鬼字→同じ、です。
by 鬼の城 (2013-01-10 10:47) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

文化財が返還される、あるべきものがあるべき場所に戻されるというのは、単に奪われた側が奪われたものを取り返すことによって傷ついた尊厳が回復するということに止まらず、奪った側の尊厳もまた同時に回復される、双方の尊厳が回復されるということです。双方、朝鮮や中国と日本、アイヌと和人がこうした作業を通じて、新たな関係を構築するのです。
文化財返還は、単にモノが一方から他方へ移動する、返した・返されたという現象ではなく、双方が誠実に歴史に向き合うことで、双方の尊厳が共に回復されるプロセスなのです。
だから言い換えれば、奪った側が問題を直視することを避けて、いつまでも解決を先送りするならば、すなわちいつまでも自らの尊厳が回復されないという大変重い問題なのです。
実際に返還に至るには、奪った側のひとりひとりが、自分の身の回りにあるモノたちを見る自らの眼差し、モノに対する認識が新たにされる必要があります。
何よりも「盗んだモノを持っていることは恥ずべきことなのだ」という人間として当たり前の感覚を、誰もが当たり前に持たなければなりません。
当たり前のことを当たり前のように言う。
常識の考古学が求められています。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2013-01-10 18:28) 

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