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陣野1999『フットボール・エクスプロージョン!』 [全方位書評]

陣野 俊史 1999 『フットボール・エクスプロージョン! -2002年への導火線-』 白水社

「…昔、テレビ東京がまだ東京12チャンネルと呼ばれていたころ、「ダイヤモンド・サッカー」という深夜の「サッカー」番組があった。この番組は30分枠の窮屈な番組で、当然のことだが一週間の放送では、フットボール一試合の全部を放送することができなかった。いきおい番組は何週にも亘ることになる。一番多いパターンは、前半の45分を30分に短縮、前後半を一週ずつダイジェスト(なんだけど、それがダイジェストだ、なんて誰も言ってなかった)で放送する、という形式であった。もともと観ている分量は現場で観る際の三分の二であるうえに、ハーフタイムが7日間あるという絶望的に間延びした放送形態…。だが80年代終わりにオランダ代表トライアングル(フリットやファンバステン、ライカールト)の活躍を拝むことができたのは、この番組だけだった。」(9.)

今から10年以上も前の本だが、古さを感じさせない。なぜなら著者は、私と同い年、生まれた月も同じ、僅か2週間ほど著者の方が年長、シンクロしないはずがない。ルート・フリットだけでなく、ゲルト・ミュラーもニースケンスも…あるいは岡野俊一郎も。

細川周平1989【2006-12-27】、今福龍太2008【2011-07-14】に続くフットボール批評第3弾。

「たとえば(98年フランス・ワールドカップ)準々決勝のアルゼンチン戦。1-1で迎えた後半44分。フランク・デ・ブールから放たれたゴール前へのロングパスをベルカンプは絶妙のトラップで目の前に落とす。神が加担したとしか思えない足の動き。キーパーと一対一だ。このときに勝負はあった。豪快なミドルシュートのイメージがベルカンプを構築してきたのだが、それらは柔らかい足首が生み出したこの絶妙なトラップのイメージにとって代わられることになった。生まれたての赤ちゃんの足の裏のようにソフトで柔軟な右足。その足にきちんと吸い込まれシュートコースに置き直される、ボール。フランス・ワールドカップのベスト・トラップ(そんなものがあれば、だが)は、ベルカンプのものであり、そのことによって彼はイメージを刷新した。ベルカンプのこのプレイには、観る者を興奮させずにおかない劇的な「スペクタクル」と、イメージ=媒介物はつねに更新され続けるという「スペクタクル」のふたつが、明確な形で共存している…。」(14.)

周知の「あのシーン」。とんでもないサイド・チェンジのロング・フィードパスが直後にはゴール左隅の天井に突き刺さっている・・・

「かつてネグリが子供だったころ、どのチームのサポーターになるか、人は理解していた。ACミランやトリノ、ローマといったチームは都市プロレタリアの<赤い>チームだった。一方で、インテルやユヴェントス、ラツィオは、経営者のチームだった。スタンドに出かけて応援することは、自分がどの階級に属するのかを再認識することに繋がっていたし、アイデンティティに対して一戦を始めることを意味していた。赤と黒をまとった子供のネグリは父親に連れられてスタジアムに足を運んだことを懐かしく想起している。だがネグリの子供たち、ネグリには一人の息子と二人の娘がいるらしいのだが、伝統に則って彼らを育てたにもかかわらず、娘たちのうちの一人の友人に、インテルの熱烈なサポーターがいるらしいのである。父親たるネグリは信じがたいと言い、いまやもう訳が分からない、と繰り返すのである。」(64.)

子どもの、それもその友達がライバル・チームのファンというだけで… 年月の重みがなせる技としか言いようがなく、日本では想像すらできない。レイソルが日立で、フロンターレが富士通で、ガンバが松下といったレベルではない。ところで、その「赤と黒」は、未だにあの「ベルルスコー二」なのだが…
その主人公は、あの<帝国>の、日本入国申請が却下された、「高円寺ネグリ系」のネグリである。
驚いたことに、筆者は別著でその高円寺ネグリ系についても言及されているのである(陣野俊史2002『フットボール都市論』青土社:174-177.)
見るべき人は、見るべき人を見る?!

文芸評論家でフランス文学者でフットボール・フリークの著者は、柏サッカー場近くのラーメン屋のオヤジとおばちゃんにまで、フットボールを見てしまう。

「めいめいが勝手に自分にとって抜き差しならぬ主題を話している。柏レイソルの快進撃を語る若者のテーブルもあれば、餃子の焼け具合を気にしている連中もいる。タンメンと餃子とビールを頼んだ私たちは、じっと待機するだけの時間を過ごす。店は、オーダーを取り仕切るオバさんと、黙々と料理を作り続けるオジさんの二人で攻守のバランスが絶妙なのだった。ややオーヴァーペースのオバさんの注文取り(オフェンス)に対して、いかなる無理な要求も天性の手裁きでもってきちんと応える(ディフェンス)オジさんの構造。」(151.)

そして「ヒデ」。

「中田の「君が代斉唱」問題とは、彼が『朝日新聞』紙上で「君が代はダサい」と語った、という記事が掲載されたことに端を発している。日本サッカー協会には数十にのぼる無言の脅迫電話があったらしい。そうした正体不明の抗議の中で「唯一」「右翼団体・日本同盟」だけが自ら名乗りを上げ、正面から抗議文を送ってきた。サッカー協会の小倉純二専務理事と話し合いの場まで持った日本同盟総括本部長の塩崎泰一氏は、こう語ったと『サピオ』に書かれてある。「国家、国旗に対して敬意を払えないような男はスポーツ以前の問題で、これをきちんとできないなら、ワールドカップに絶対に出場させてはならない。」(中略)「対応にあたった小倉専務理事は『この次はちゃんとやりますから、この問題は私に預けて下さい』といった。さらに(中略)『直接指導するのか』と聞いた。すると小倉さんは『マナーについては私が直接指導します。いまは中田が勝つためにどうしても必要なのです。』と答えた」(114.)

「唖然とするのは、国家とか国旗の問題が「マナー」の問題として処理されていることだ。これは歪曲であり、すり替えである。(中略)右翼団体からの抗議を「私に預けてくれ」といった形で受容し、中田個人へ協会として圧力をかけるのではなく、もっと開けた場の議論に到らしめるべきではなかったか。私は日本サッカー協会の体質が持っている、奇妙な受容と歪曲を批判しているのだろうか。そうである。だがそれだけではない。日本の「サッカー」に文化がない、ことに苛立ちを覚えているのだ。「君が代」を斉唱しなければ、右翼団体は抗議するだろう。一方で歌わずともよい、と考える人間だっている。それは立場の相異というものだ。だがそれを隠蔽する、あるいは歪曲してなかったこと・存在しなかったことにする、そうした態度だけは許されない。」(115.)

日本サッカー協会や日本相撲協会だけでは、なさそうである。
残念ながら、そして当然のことながら。


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