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矢部・山の手2001『無産大衆神髄』 [全方位書評]

矢部 史郎・山の手 緑 2001 『無産大衆神髄』 河出書房新社.

「矢部:いま、臓器移植の話をしたのは、運動というのは、運動の知性というのは、心臓で考えるみたいな話だろうということを言いたかったんです。運動というのは、脳みそで考えた理屈を実践して、運動してるんじゃない。そんな会社で働くような仕方で運動してるんじゃない。運動は、脳みその奴隷じゃなくて、むしろ逆に、まず初めに運動があって、運動のなかで心臓がバクバクする事態がいろいろあって、そしていろいろ考えたり考えなかったりした考えが、理論化されたりされなかったりする。そういう新陳代謝みたいな思考がつねにあって、それは出所が特定できないようなあらわれ方で、いつのまにかあるし、いつのまにか忘れる。
山の手:それだ。
矢部:うわっ
山の手:忘れるんだよ! 忘れるの賛成。
矢部:……。
山の手:っていうか、忘れなきゃダメ。いろいろ忘れるから、運動はすごいんだよ。私なんか、何月何日の何曜日とかぜんぜんわかんなくなってるし、自分が喋ったこととかどんどん忘れるし、喧嘩した相手とか忘れるし、ご飯食べたかどうか忘れるし。
矢部:それじゃ痴呆だよ

山の手:そうかもしんない。それが運動の力だと思う。いろんなことジクジク覚えてる奴、最低。考えるということは積み重ねだとか思ってる奴、最低。積み重ねちゃダメなんだよ。ガンガン擦り減らして、ガンガン引き算して、ギリギリの究極の線をピシーッと引いていく。その線が運動。
矢部:日本語壊れてるよ、キミ。
山の手:ピシーッと線が引かれる。そうすると、重要なこと、どうでもいいことが、配置が変更されて、どうでもいいと思われたことが、実は重要なことなんだということが、浮き出てくる。それで、人が話していることが、何を言っているのか、ぜんぜん違う内容が聞こえてくる。まえに読んだ本に、ぜんぜん違うことが書かれている。そしてまた線を引き直して、さらに線を削っていくわけです。ピシーッと。
矢部:ピシーッてなんだよ、ピシーッて。
山の手:ピシーッていうのは、線。
矢部:だから、
山の手:絵を描くとき、一本の線を引くときに……悩むわけですよ。たかだが一本の線に、悩んで悩んで、そして、グイッていう。
矢部:グイッてなんだよ、グイッて(笑)。
山の手:タブローに……グイッ。そのときディメンションが動く。そこで終わり。また振りだし。地と図が産出される、一瞬だけ。残るのは、痕跡。わかる?
矢部:わかんねえよ。
山の手:絵は一瞬が勝負。餅つきもそう。
矢部:また餅か―。
山の手:餅をついた瞬間、ディメンションが、動く、わけですよ。気が付いたら、「どんどん食べていいよー」なんてね。彼はそのとき電電公社の職員ではなくなっていて、訳のわからないイイ奴、怪人餅マンになっている。彼が何をしようとしたかとは無関係に、結果だけが、私たちに痕跡を残す。それは、電電公社には、包摂されないもの。当事者にもよくわからないもの。そこで、私が受け取った痕跡というのは、誰のものでもない、私有できない……。
矢部:餅(笑)。
山の手:そういう私有されない痕跡と、それを産出する一瞬が、芸術の条件だと考えていて、線を引いたとたんに自分の目論見からはずれていって、自分ひとりのものではなくなっていく。そういうことを、楽しんだり、じたばたする。それができないのは、ただのサブカル。芸術ではない。芸術とサブカルは全然違う。
例えばアメリカの現代芸術というのは、なぜいつまでたっても二流なのかと言えば、彼らは演劇をやっていない。劇場のような集団的な空間を持っていない。ヨーロッパの芸術運動は、演劇をやっている。アメリカの現代美術は演劇をやらない。だから彼らは、ヨーロッパで展開された芸術運動をちょこちょこアレンジすることしかできない。
矢部:アメリカ貧乏だから。やることなすこと貧乏くさいっていう。そこがまたいい。サブカルの殿堂。
山の手:いや、痛々しくてみてられない。カネボウの遊園地的な……(泣笑)。
矢部:あ………。
山の手:ん?
矢部:うわっ、まっずいよ。あーあ。
山の手:なになに。
矢部:まあいいや、終わり。」(同:56-59.)
「高円寺ネグリ系、運動を紹介しようとして失敗」『文藝』1999・夏

この疾走感、そして掛け合いの間合い。
「怪人餅マン」とか「カネボウの遊園地」とかは、本文全体を読んでいただかないと理解できないかもしんない。
しかし運動論としては、第2考古学運動にもピッタリというかピシーッと当て嵌まる。
そもそも第2考古学というのは、第1と第2の間にピシーッと線を引くことそのものなのである。
最近特に思うのだが、学問にしろ何にしろ、結局はギリギリのところでピシーッと線が引けるかどうか、なのである。

さらに当て嵌まる文章を別の書籍から。

「僕の文章について「もっとわかりやすく書いてくれ」と言われることがあるんですが、俺だってわかんないよ。こっちはこっちで自分でもわかんないことを恥さらして書いてんだから。なんでわざわざ書くことをやるのかといったら、あるわかりきったことや、支配的になっているあるわかりかたに対して、亀裂を入れられるかどうかというバクチをやっているわけで、僕はすごく保守的な人間ですから、「反資本主義」とか「反労働」とか書くときに、自分だっておっかなびっくりで書いていますよ。自分でもこわいですよ。逆に、読むことや書くことや考えることが、バクチをうたないおさまりのいいものになっちゃたら、そんなものはちっともおもしろくない。」(矢部2006「新たなる階級闘争とは何か」『愛と暴力の現代思想』:50.)

毎年毎月生産され続ける考古学の論文やら書籍についても、亀裂を入れようとしているのか、それとも亀裂を埋めようとしているのか、バクチをうとうとしているのかそれとも単に空白を埋めようとしているだけなのかは、最初の1ページ、いや論題をみただけで大凡の検討はつくだろう。


タグ:運動論
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