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日本古代文化学会と日本考古学協会 [学史]

日本古代文化学会
創立 1941年
「本會ハ日本及ヒ東亜二於ケル古代文化ノ調査研究ニ努メ以テ皇國宏謨ノ由ツテ来ル所ヲ闡明スルヲ以テ目的トス」(會則第2條)
創立時本部委員(17名)
稲村担元 江上波夫 大場磐雄 桑山竜進 甲野 勇 後藤守一 篠崎四郎 杉原荘介 坪井良平 直良信夫 馬場 修 樋口清之 肥後和男 藤森栄一 丸茂武重 三森定男 矢島清作

日本考古学協会
創立 1948年
「本会は日本に於ける考古学者が提携して考古学の研究をすることを以て目的としそれに必要な事業を行う」(会則第2条)
創立時役員(11名)
藤田亮策 梅原末治 後藤守一 駒井和愛 八幡一郎 斉藤 忠 江上波夫 水野清一 石田茂作 山内清男 杉原荘介 

両組織の関係については、今までに述べられた文章を見たことがない。
(追記:福田敏一2005『方法としての考古学』:204.に「両学会の系譜的なつながり」を示唆する文言がある。)
しかし日本考古学協会の初代委員11名の内3名の方々(後藤・江上・杉原)は日本古代文化学会の本部委員でもあり、しかもその内の2名は両組織において主導的な役割を果たしており、両者が「全く無関係である」と言い張るのは難しいだろう。

「登呂遺跡調査委員会の成立は、明治大学教授後藤守一氏が文部省科学研究費の個人的の交附金を、広く関係考古学者の共同研究に充てることを申出たためで、したがつて昭和22年の登呂遺跡調査は、新たに設立された委員会の委員長今井登志喜氏を首班とし、後藤守一、大場磐雄、駒井和愛、八幡一郎、斉藤忠、杉原荘介等の諸氏を中心として実施されて初めて実質的協力調査の実を挙げたのである。」(藤田亮策1951「学会、協会」『日本考古学年報』第1号:9.)

「設立総会は準備委員会が発起人となり杉原荘介氏の司会で進行した。総会は、議長に後藤守一氏を選び、協会の設立を可決し、会則の審議などを経て、委員11名を選任した。」(大塚初重1998「日本考古学協会設立の日」『日本考古学』第6号:206.)

「…吾々の戒しむべきは、合同の綱を弛めてはならないことである。本會員は少し宛の不便を忍ぶを忘れてはならないことは前に述べた。併し人は忍ぶことに、得て不満を抱き易い。自己を主張し易い。固より人は容貌の各自異るが如く、研究にも個性を持つものである。吾人はその研究の個性を尊重すると共に、學の大成の為めに、大同に就かんことを切望するものである。今日、合同の實を挙げた時の情熱を、永久に冷却せざらんことを冀望して止まない。」(後藤守一1941「日本古代文化学会の主張」『古代文化』第12巻 第3号:102.)

「宮城遥拝・皇軍兵士に感謝の黙禱を捧げた後、三森委員によつて開会の挨拶が述べられた。開会の辞に次いで、杉原委員から本会成立経過に就いて報告があり、それが終ると、後藤委員長より、別項の如く本会の主張に就いて詳細な説明が試みられ、一同に多大の感銘を興へた。」(「本会第1回総会」同:99.)

言い知れぬ空しさを覚えるばかりである。

去年今年貫く棒の如きもの 虚子


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コメント 3

カラス天狗

過去から現在そして未来へ「貫く棒の如くもの」があるとするならば・・・・
「1945年8月、アジア・太平洋戦争の終結にともない、日本の考古学は皇国史観の重圧から解放され、研究の自由を手にした」(横山浩一1998「戦後50年の日本考古学をふりかえる」『日本考古学』第6号)というような、いわゆる「左派」学史の書きっぷりには、要注意ということになりますねえ。
そして「70年」前後の学生騒乱の時代、そしてねつ造事件を経て、何が変わらなかったのか、直視すべきでしょう。
蛇足ですが、登呂の発掘についても、杉原荘介が、すでに戦中において、それを機会に「日本国内の考古学研究者の大同団結を謀りたいとする意図を示され」、この発言は「日本考古学協会の設立」までもが視野に入れられていたと江坂輝彌と述懐しています(江坂1998「日本考古学協会発足の考想を語った杉原荘介」『日本考古学』第6号)。
不連続よりも連続にやはり注視すべきですね。
by カラス天狗 (2012-08-24 13:04) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

「考古学の学史をそれぞれの時の流れ、その時点における「国民」としての立場を度外視して、「考古学者」としての側面のみを切りとって把握する不合理さを冒して(ママ)いないか、という不安感がつねに付きまとうことである。」(坂詰秀一1997「あとがき」『太平洋戦争と考古学』:224.)
当時の考古学者にとっては、「国民」としての立場を前面に打ち出した人もいれば、非国民としての立場を貫いた人もいた訳であり、そうした立場と考古学者としての側面を切り離すことができると考えること自体が理解できません。
歴史とは、常に後の時代からの批判にさらされるものであり、極端なことを言えば、今私が書き綴るこの言葉さえある立場に立つ言説であり、そのことはあらゆる批判に対して開かれていることを意味しているわけで、だから様々な未決の複数形の歴史が存在しており、そこから「考古学者」としての側面のみを切りとることはできないし、できないことを想定して付きまとわれる不安感は、そこに無意識の意図がある場合は意図せずに織り込まれている場合が多いことについては、これまた様々な歴史の多くが証明するところです。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2012-08-24 21:20) 

履歴書

とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。
by 履歴書 (2012-09-15 09:47) 

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