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日本古代文化学会 設立趣意書 [学史]

「肇国以来二千六百一年、萬世一系の天皇上に在しまし、皇思萬民に遍く聖徳八紘に光被す。臣民亦忠孝勇武父祖相承けて皇国の道義を宣揚し、君民一體以て国運の隆昌を致せるは国史に徴して瞭かなり。而して今や東亜善隣の諸邦と結んで共存共栄の実をあげ、独伊両国と締盟して世界新秩序建設の偉業を果さんとす。洵に壙古未曾有の秋といふべし。

翻つて考古学の学績を顧みるに皇国は文化の由って来るところ極めて悠遠、しかもその秀英を萬那に誇示し得べく、変遷幾千歳、終始日本文化の特性を発揮し来れるを明かにし、又東亜諸邦は各々自己の文化を展べつ々も互いに倚相り相通じ、以て世界に独歩すると共に、恒にその精華を我が国に朝湊せしめ来りしを具象し得たり。しからば皇国の偉業東亜共栄圏の淵源するところは既に遠古にあり、しかも派絡して今日に至りしことを闡明せんとするは斯学の本領たり、吾人の奉公すべき職域正に茲にありといふべし。

斯の学はその研究対象を地方の遺跡遺物に求め、精緻なる観察と透徹せる見解の綜合に俟たざるべからず。而してその遺跡は不時に発見され、遺物は湮滅、散佚を招き易し。之を以て自ら其の研究の基礎を地方具眼の士に委ぬべきものであると共に、緊密なる連繋と資料の共通とを必要とする、斯の学に如くものはなかるべし。従つて一研究所又は一学者が単独に之を能くし得可からざるは斯学従来の成果に徴して明かなるところ、吾人努めて分立排他を避け、協力一致、以て合同調査の実を挙げんとするを、吾が日本古代文化学会設立の方針とするもこの意に他ならず。

東京考古学会・考古学研究会及び中部考古学会は、吾人の意図を賛して光輝ある歴史と確固たる基礎を有するにも拘らず、進んで基の学会を解体し、欣然わが日本古代文化学会に参加融合を決せられしは学会近来の快心事として感激の念切なるものあり。茲に三学会の合同に基礎を置き、更に同志の参加を乞ひ、相提携して日本及び東亜古代文化を研究し以て国家奉公の徴意を致さんことを期す。」(日本古代文化学会1941「設立趣意書」)

本文は、『プロレタリア考古』第3号所載文の欠落箇所を、一部坂詰秀一1997『太平洋戦争と考古学』:190-1.)にて補う。わずか70年前の日本語にも関わらず、その難文には閉口する。当時はこうした文章が「カッコいい」と思われていた訳である。とにかく、ここに「日本考古学」は、「国家奉公」の学問であることが高らかに宣言されたわけである。しかしそのことは1945年以降、関係者あるいは後継組織によって明確に否定されたのだろうか?

「この設立趣意書は、大東亜共栄圏構想は万世一系の天皇をいただいた世界でも独自の位置をもつ神国日本によって、アジア諸民族の独立、歴史的文化的同胞のアジア民族の一大共同体建設をなしとげるものであり、古代文化学会は日本とアジア諸国の文化的連続の深さと、神国日本の際だった優秀性を明らかにすることで、この大事業に参画するものである、ということである。
ここで我々が注目せねばならないのは、大東亜共栄圏構想が「文化」をもって他民族侵略の論理としており、考古学は「文化」史観でもってこの構想を正当化しているということである。考古学が「文化」史観に追随することは、古代の人々はこういうものを使っていましたという説明に終始する。いわば歴史書のさし絵学となり下がってしまい、そこから、日本古代文化の優秀性、東亜民族との文化的一体性 ―大東亜共栄圏の淵源は古代からあるという侵略論理になっていくのである。この「文化」史観をつくりあげるのが、遺跡・遺物の個別実証主義研究である。簡単に結論をいってしまえば「戦前の考古学が天皇イデオロギーに膝まづいたのは、なによりも考古学の遺跡・遺物を対象とする個別性が、荘厳な「文化」を軸とする体系に無力であった」し、しかもその皇国史観に屈服する考古学の「個別性」という体質が、現在の考古学に清算されずに再生産されて残存しているのである。」(1975『プロレタリア考古』第3号:4.)

「我が日本こそ、諸国家・諸民族に率先し、万死をも辞せざる不退転の覚悟を以て、世界を闘争と破滅とより救済する為にこの難局に当らねばならぬ。然らば何故に我が国が率先してこの難局に当らねばならぬか。それは宇宙の大生命を国の心とし、之を以て漂よへる世界を永遠に修理固成なして、生成発展せしめる我が天壌無窮の国体が、正に全世界を光被すべき秋に際会して居るが為である。…国家・民族を基体とする一大家族世界を肇造する使命と実力とを有するのは、世界広しと雖も我が日本を措いては他に絶対にないのである。」(1937内閣・内務省・文部省『八紘一宇の精神』)

「「宇宙の大生命を国の心とし…」というあたりなど、スピリチュアル系トンデモ臭がぷんぷんしてくる。要するに、日本が万世一系の神様の子孫を天皇に戴くすごい国だから―というのだが、自分たちは偉いんだ、理由はないけどスゴイんだ、天皇がエライから俺たちもエライんだ―ということしか言っていない。中二病的世界観というか、自己満足というか、まさにチラシの裏にでも書いとけ的作文にほかならない。
昭和十五(1940)年には、第二次近衛内閣が策定した「基本国策要項」において、「八紘一宇」は大日本帝国の国是とされ、「大東亜戦争」を支えるイデオロギー的核心となった。本パンフレットの末尾にはこう謳われている。
起て! 国力総動員のために! 翻へせ! 八紘一宇の御旗!
かくして我が日本民族は、恥ずかしい四文字語の旗をおしたててウンカの如くアジアを襲ったのであった。」(早川タダノリ2010『神国日本のトンデモ決戦生活』:86-87.)

ところで、日本古代文化学会はいったい何時まで存続したのだろうか?
1946年には、秋田県大湯遺跡を調査しているようなのだが。もしかして1948年の3月まで?


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カラス天狗

8・15ですね。いつものように九段下界隈は騒々しいのでしょうね。
久々に「プロ考」や「日本古代文化学会」のことを思い出させていただきました。
「古代文化学会」に拠ったメンバーの戦中・戦後の言動をもう一度おさらいしておく必要があるかもしれませんね。

「設立趣意書」を瞥見して、思い当たったのは、宮崎の平和台公園に聳え立つ、皇紀2600年を記念して造立された通称「八紘一宇の塔」(八紘之基柱:あめつちのもとはしら)の正面に銘刻されていたという「八紘之基柱定礎之辞」です。
「恭シク惟ルニ、日向ハ大日本ノ祖国、天祖コゝニ降誕シ、天孫コゝニ降臨シ、実ニ我ガ神聖ナル皇室発祥ノ聖地タリ。恰モ皇紀二千六百年ノ嘉辰ニ当リ、畏クモ神武天皇皇居ノ霊域ヲトシ、八紘之基柱ヲ建設シ、以テ宏遠ナル肇国ノ理想ヲ内外ニ宣揚シ、無辺ノ皇徳ヲ永遠ニ虔仰シ奉ラントス。伏シテ願ハクバ、昊天后士、常磐堅磐ニコノ聖柱ヲ鎮護シ、千秋万古、皇国ノ昌運ヲ霊助シ給ハンコトヲ。稽顙敬拝。昭和十五年庚辰神武天皇祭日」と刻まれていたようです(『平和概念の再検討と戦争遺跡』君塚仁彦編、明石書店2007)。

いたようだとは、随分曖昧な・・・・ということなんですが、敗戦後、GHQをはばかって取り外された塔本体の「八紘一宇」の文字、武人像は復元されましたが、「定礎之辞」と塔背面に設置された、当時の日本帝国の支配範囲を銘記した「大日本国勢記」は復元されていないからです。戦後「八紘一宇の塔」を「平和の塔」と読み替えようとして努力してきた勢力にしてみれば、当然でしょうね。その造立の目的が明白となってしまいますからね。

ちなみに「定礎之辞」と「大日本国勢記」を作文した日高重孝は、典型的な「ファシズム教師」でした。日高は、戦後も宮崎において教育や歴史研究において影響力を保ち、「定礎之辞」と「大日本国勢記」が「八紘一宇の塔」に復元されないことに憤っていたようです。まあ、日高の考え方は、私にはまったく賛同できませんが、立ち位置・歴史認識が一貫しているという意味では、日高は「立派」です。

そんな日高を斎藤忠氏は、宮崎にゆかりのある「好古家・考古学者」として紹介しています(『郷土の好古家・考古学者たち 西日本編』雄山閣、2000年)。しかし、斎藤氏自身が、どのような立ち位置から日高氏を業績を評価するのか良くわかりません。また「八紘一宇の塔」に対して坂詰秀一氏は、いち早く「近代の考古学的資料として、いま一つ注目しているモノとして『八紘之基柱』(宮崎)がある」と述べていました(『季刊考古学』72、2000)。しかし、坂詰氏も、いかなる立ち位置で、その「モノ」に「注目」するのかは説明していません。これらの学史記述には、歴史認識の空洞化を観るのみです。

by カラス天狗 (2012-08-15 11:19) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

私が驚いたのは、何と戦後も日本古代文化学会が存続していた!ということです。何となく、1945年で自然消滅と思っていたものですから。
「1946 ・日本古代文化学会 大湯遺跡を調査(10)」(岡本勇・麻生優編1958『日本石器時代綜合文献目録』:193.)
これは是非追求すべきテーマかと思います。この本の序文には、以下のように書かれていますから。
「私のような老人は、ふだんこういうことを考えている。歴史はだいじにするものだ。すべてものの今日あるのは、昨日があるからだ。われわれの研究も、昨日のものの上に立つものであり、十数年、いな百数十年前と先人が築きあげてくれたものを基礎としない限りには、今日のものは生れてこないのだというのである。なるほど十数年前、数十年前の先人の研究は、今日からいうと不十分きわまるものであるが、やはりそれが今日の研究の基礎となっているのだ。だから、われわれはその先人の研究を先ず身につけていこうというのが、私の所信である。そして、これを私のような老人の回顧趣味に皈してはいけないと思っている。」(後藤守一「序文」)
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2012-08-15 12:26) 

カラス天狗

うーむ。是非、追究しましょう(笑)
それにしても、新憲法下の新しい世の中になったが、私たち「老人」の研究(そして歴史認識・思想)を尊重し、「身につけていこう」としないと、君たち若い考古学徒も生きてはいけないのだよ、という恫喝にも読める文章ですねえ。じつに悪質です。新生日本考古学を印象づける登呂の発掘の学史的評価も、こうした「老人」の確信を念頭におくと、その主要メンバーの顔ぶれをみると、大きく変わらざるをえませんよね。
by カラス天狗 (2012-08-16 12:43) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

「先ず上代衣服考の後藤は、自分から紹介するも烏滸がましいが、近頃国粋主義になつてゐる立場を御諒解願ひたい。」(1941『古代文化』第12巻 第7号「編集後記」日本古代文化学会)
「歴史はだいじにするものだ」という言葉は、良い点も悪い点もすべてひっくるめて「だいじにする」ことと「諒解」しています。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2012-08-16 22:23) 

鬼の城

今手元に資料がなく、原典を確認はできませんが、日本古代文化学会が日本考古学協会に横滑りした、と認識しています。戦中も戦後も基本的に何も変わっていないと思います。
by 鬼の城 (2012-08-19 07:31) 

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