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目からウロコの日常物観察 [全方位書評]

野外活動研究会 2003 『目からウロコの日常物観察 -無用物から転用物まで-』社団法人農山漁村文化協会 百の知恵双書003

「今回、この本で書いたものも、その研究活動のうちの一端で、「人がどのようにしてものにかかわっているか」をとらえてみたいと思ったからである。ここでいう「もの」とは、山野の自然物ではなくて、日頃から見慣れた建物や衣服、道具などの人工物である。ごくありふれた「日常物」を対象にしている。それは、人間がみずから人間のためにつくったものであり、それを人間はどのように扱っているのか、問い直してみたいと思ったからである。」(岡本信也「あとがき」:158-9.)

「日常の暮らしはごはん(A)は炊飯器(A’)で、草木(B)は植木鉢(B’)でというような目的達成型の思考ばかりで成り立っているのではない。A-A’、B-B’ではなく、BがA’に使われることがあるように、「転用の知恵」とでも言うようなところで支えられていることもある。(中略)
人は暮らしの中で道具のいろいろな使い方をする。前述のAはA’、BはB’というような単純明快な思考ばかりではないように思う。」(岡本信也「日常物観察から暮らしの諸相を読む -序にかえて-」:14.)
という野外活動研究会代表の岡本氏が提唱する「用の図式」、すなわち「用」の字を中心にY軸プラス方向に「多用」・「混用」、マイナス方向に「代用」・「転用」、X軸プラス方向に「不用」・「無用」、マイナス方向に「実用」・「愛用」という「道具と人の接し方、使い方」に関するフレームワークを基にして、フィールドワークがなされていく。

私としては、無用には有用を、多用には専用を対置したいところである。

こわれた炊飯器、水の漏れるやかんを植木鉢として「転用」する。果ては便器までもが。
しかしこうした「転用」には、ある方向性がある。
AがB’に、すなわち植木鉢を炊飯器にはできないし、しないのである。

こうした意味で、すなわち「考古学的転用論」という意味で、本書第1章:転用物の研究の「転用のデザイン」(平田哲夫)および「現代転用物小事典」(嶋村 博)が重要である。
「ものを考えた人、つくった人が最初に意図した使い方と実際の使い方が異なっているとき、これを「ものの転用」と呼ぶことにします。」(平田哲夫:19.)
「「転用物」とは、火鉢→植木鉢、ごみ箱→花壇のように、ものの本来の使い方とはちがった使い方をされたものを指す。」(嶋村 博:63.)

考古学方面からは、「「二次利用または転用の考古学」の体系化に向けた試論であり、素描である」として、土器片錘、炉体土器、石皿転用打製石斧、磨製石斧転用砥石、瓦転用カマド支脚などが挙げられている(領塚正浩2010「二次利用または転用された遺物について -物質文化の多様性を探る-」『房総の考古学』六一書房:229-241.)。
但し「食用に入手した動物の身体の一部(骨・角・牙・貝殻など)を加工し、道具として使用したもの」(同:229.)までをも「転用品」とするのは、いささか拡大解釈ではないかと思われる。なぜなら、これら全てが「食用に入手した」際に得られたとは限らないし、何よりも当初の用途が製作痕跡として決定していない<もの>までをも、「考古学的転用品」に含めるのは如何なものかと思われるからである。

また平田氏が記すように「竹かごに花を入れれば花かご、果物を入れれば果物かご、ごみを入れればごみ入れ……これもものの転用です」(平田哲夫:19-20.)というのも、難しい問題である。
なぜならば「竹かご」というカテゴリーに属する<もの>の「最初に意図した使い方」あるいは「本来の使い方」をどのように考えるかによって、これらは転用品にもなるし、ある道具の多機能的一側面ともなるからである。「竹かご」を「竹を素材として編んだ開いた口を上にして何かを入れる道具」といった定義とすれば、「花かご」から背負い紐をつけた背負子までもが「本来の使い方」に含まれうるし、ひっくり返して鶏を中に入れるような使い方は「転用」事例となるのではないか。

それでは「タオル」を頭に巻くというのは、タオルという<もの>の転用と言えるだろうか?
それは「ネクタイ」を頭に巻くのとは、自ずから異なった様態と言えよう。
後者を「転用」とするのに何の迷いもないのに、前者では逡巡してしまうというのは、どうしてだろうか?
それは単純な「かたち」の<もの>ほど、様々な用途に用いることができる多機能・多用途であり、「汎用」性が高いからであり、特殊な「かたち」で特殊な用い方に特化した<もの>は、「専用」性が高いために、それ以外の用い方は須らく「場違い」と見做されるということなのであろう。
こうしたことは、ティッシュ・ペーパーが単に「鼻をかむ」だけに用いられる訳ではないということを考えるだけで明らかであろう。

「コップ」という液体飲用具は、対象とする液体の種別に応じて、コーヒーから紅茶、日本茶、ビール、日本酒、ワイン、スープに至るまで、外形の違いとして表出した機能分化が発達しているために、コーヒー・カップでワインを飲めば、その「場違い」感は否めない。
但し、そうした感覚も様々な要求に応じた<もの>が適切に提供可能であるという想定に基づいた感覚であり、特殊な条件下、例えば登山中であればアルミ製カップ一つでどのような内容物に用いたとしても私たちは何の違和感も感じないだろう。
<もの>の形と用途の対応関係は、<もの>が使われる場面に応じて可変的である、という当たり前のことが確認される訳である。

注意すべきは、「転用」には形状を変えることなく他の用途に転じて用いられる「不変転用」と、破損などを契機とする「変形転用」の二種類が存在するということである。
そして「不変転用」は転用されている現場を確認しない限り、あるいは転用された状態がそのまま維持されていない限り認定が困難であり、<もの>から行為を見通す「考古学的転用」は「変形転用」を主とせざるを得ないということである。

「転用」とは、使えなくなってしまった<もの>をすぐさま廃物とするのではなく、「まだ何かに使えないか」と考える柔軟な発想(廃物利用)が根源にある。
当初の機能を維持したまま、すなわちまだ使えるのに他の用途に転じる場合もあるが、それは本来的な「転用」とは言い難い。ゴミとして処分するのには手間も費用もそれなりに必要とされる。それならば同じ手間暇をかけてマイナスからプラスに転じてしまおうとする、本来の用途完了と廃棄が直結した「使い捨て」思考とは正反対の、優れて人間的な営みなのである。

「転用論」にとって、第4回Res:もの研究会「転用‐ものは流転する」(2003/05/10)における議論がとても重要である。
今にして思えば、2003年は日本における「転用論」のエポック・メーキングな年であった。


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ベラボーカクウチ

転用、専用・・・・・・。

社会的な構成物の最小単位としての「モノ」では、なるほどと思います。

一方、建築(建物)のような長時間寿命で、用途が可変的な「モノ」は、
どうなるのでしょうか・・・・・?
by ベラボーカクウチ (2012-07-01 12:50) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

2003年の第4回Res:もの研では、建築史の中谷礼仁・登尾聡両氏によって「弱い技術について/都市の転用」と題した発表で、近代長屋建築と都市構造における転用プロセスについて、興味深い発表が行われました。詳しくは、中谷さんの著書『セヴェラルネス 事物連鎖と人間』2005、鹿島出版会をご参照下さい。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2012-07-01 19:25) 

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