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上村2001『先住民族の「近代史」』 [全方位書評]

上村 英明 2001 『先住民族の「近代史」 -植民地主義を超えるために-』 平凡社

「先住民族の問題が、単なる「失われた文化」の保存や「奪われた権利」の回復に終わるならば、それは近代社会における「博物館」のような意味しかもたないであろう。本書は、先住民族の歴史や文化を、そうした「近代化」によって「失われた過去」の回復、あるいは行き詰った「近代」を超えるユートピアとしてではなく、逆に近代国家のただ中でこそ、先住民族が動員され利用された経緯を明らかにする。近代国民国家こそが、先住民族問題を「課題」として生み出したという新たなテーゼを提示し、先住民族研究のパラダイムを切り拓く画期的な力作。」(裏表紙より)

「先住民族の視点から見るとき、核開発の本質をよりはっきりと見ることができる。核問題は近代社会の中の「平和」か「軍事」かあるいは「豊かさ」か「貧しさ」かという人類一般にとっての選択的問題ではなく、民族差別と植民地支配を前提にした「人権侵害」という普遍的問題にほかならない。そして、核問題は、先住民族に関する限り、二〇世紀から二一世紀に持ち越された絶対的な「負の遺産」を形成している。北米先住民族には、「七世代先」のことを考えて現在のことを決めるという教えが存在する。「今」のことしか考えなかった人々が、「七世代先」のことを考える人々に押しつけた「負の遺産」を二一世紀はどう清算するのだろうか。」(265-266.)

先月の脱原発世界会議2012YOKOHAMAのとあるブースにて入手した抜き刷りの一節である。
そこから、本書全体を読み進めるべく手にとる。

しかし一頁読み進める毎に、本を閉じて考えを巡らし、休み休みでないと読み通せない、そんな「重い」書肆である。

「本稿が指摘したい最大のポイントは、先住民族の権利の視点がなかったために、日本の歴史学をはじめとする社会科学が、この大日本帝国の詭弁に150年にもわたって誤魔化されて、「北海道」と「沖縄」を植民地問題のスコープからはずしてきてしまったことである。そして、その結果、依然として「植民地政策」や「同化政策」が続行中であるという事実に向き合うことも忘れ去られている。」(150-1.)

如何に近代文明国が、先住民族を踏み台にして自らの繁栄を築いてきたかが、明瞭に示されている。それは記されているように、現在にも引き続き継続している構造であることは、原発立地自治体への異常な公金投資や沖縄防衛局長の酒席での発言によって、誰もが確認できる。
ウラン鉱山での採掘に始まり、放射性廃棄物の最終処理に至るまで、それは都市・文明・近代が地方・過疎・先住民を犠牲にして初めて成立するものであることもまた明らかである。
そうした傾向が世界でも最も顕著であるとされるこの国は、3・11以後どのような道筋を選びとっていくのだろうか?

「16世紀に起源を発する人権侵害と環境汚染は、その歴史の本質が忘れさられた地域では500年を経て、まさに21世紀を迎えた今日でさえ解決していない。そして、残念ながら、「公害問題」も「地球環境問題」も近代産業社会が行き着いた「帰結」によって引き起こされた悲劇だとこれまでとらえがちであった。しかし、近代システムには、その「前提」として、技術革新と経済成長、環境破壊と人権侵害の相互関係が組み込まれていたことをポトシーと先住民族の物語は示唆している。近代システムの「帰結」は、むしろその「原点」の再検討によって、予想することが可能になることが少なくない。いまだ清算されていない「コロンブス」時代の教訓を、未来の時代に生かすためにも、「水俣病」の前にあった「水俣病」を改めて考える意味は決して小さくはなっていない。」(179.)

先住民考古学、アイヌ考古学、琉球考古学、植民地考古学、侵略考古学、これらがすべて折り重なって、「日本考古学」に組み込まれている。


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