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韓日文化財交流大会 [研究集会]

蓮池寺鐘環収国民運動 第1回 韓日文化財交流大会
연 지 사 종 환 수 국 민 행 동 한 일 문 화 재 교 류 댸 회

日時:2011年12月17日(土)~19日(月)
場所: 韓国・慶尚南道・晋州市
主催: 蓮池寺鐘環収国民運動
後援: 慶尚南道・晋州市、韓国文化財庁

「蓮池寺鐘還収国民運動は、今年で創立3年目となる活動である。統一新羅時代の833年に鋳造されて、壬辰倭乱(文禄の役)の翌年(1593年)に晋州城陥落で略奪され、現在は日本国福井県敦賀市の常宮神社が保管する晋州蓮池寺鐘の還収運動を行っている。この文化財還収運動は、単に晋州圏域の歴史・文化運動に終わらず、関係する国家相互間における略奪文化遺産の共感形成と同時に、蓮池寺鐘還収のために韓国と日本の文化財および歴史研究者の互恵的関係改善が先行して進められなければならない。」(『蓮池寺鐘還収韓日文化財交流大会計画案』「事業目的」から一部改変して抜粋)

1日目の晋州城および晋州国立博物館の見学、歓迎晩餐会から始まり、2日目の交流大会へ。
セッション1: 韓日文化財交流活動と市民団体の課題
セッション2: 蓮池寺鐘保存管理および共同対応方策
セッション3: 蓮池寺鐘還収のための韓日間の役割と対策

セッション2におけるファン・ビョンウ氏(韓国文化遺産政策研究所)およびカク・ドンへ氏(東国大学)の発題を受けて、以下のような簡単なコメントを述べた。

「考古学は、<遺跡>を発掘調査し、<遺跡>という<場>における<もの>と<場>の関係、<もの>と<もの>の相互関係からその<場>に<もの>を残した人々の様々な営みを考えます。ですから<場>における<もの>の在り方、<場>と<もの>の相互関係が何よりも重要視されます。<場>から切り離された<もの>は、そうしたコンテクスト(脈絡)が失われた「2次資料」とされます。<もの>である文化財も生み出された<場>における位置づけがなされて初めて、その本当の価値が与えられると言えます。<場>から切り離された文化財は、単なる骨董品と言っていいでしょう。
こうした価値ある<もの>である文化財は、時にその所有・領有を巡って、立場の異なる人々や国家の間における争奪・対立・抗争の原因となってきました。しかし<もの>に対する私たちの対し方・見方次第では、対立のもとになっている文化財が、逆に人々・国家を結び付け、隔てや誤解を解消し、共同して作業する契機ともなりうるのです。
それでは、どのようにしたら、そのような新たな関係を形作ることができるでしょうか。
それには、私たちの<もの>に対する見方を新たにする、更新していくことが必要です。
どのようにして?
私たちが<もの>を見るときに、2つのポイントを意識することが必要です。
1つは、その<もの>が生まれた時や場所です。製作された時代や場所であり、現在の博物館などの展示品に付されているラベルには、こうした情報のみが記されています。
しかし私たちは2つめのポイントをも意識して、<もの>である文化財を見なければなりません。それは、その<もの>が今ある<場>に運ばれてきた時や経緯についてです。1つめのポイントである製作地から遥かな道程を経て運ばれてきた場合に、誰が何時、どのようにして、そしてどのような意図で、その<もの>を運んできたのか、そのことがやはり展示されている<もの>を理解するのに欠かせない情報なのです。これからは、そうした情報が<もの>に付されているラベルに記されるようになるでしょう。
こうした<もの>の見方が多くの人々、特に原産地から運び去った経緯のある国に帰属する人々の間で意識的になされるようになった時に、紛争・対立の種であった文化財が、今までは対立していた人々・国々を結び付け、和解の道へと進みうる重要な働きをなすことになるでしょう。」

「国宝 朝鮮鐘(太和七年三月日清州蓮池寺鐘在銘) 一口
指定年月日 昭和27年11月23日
(中略)
その鋳法は蝋型鋳物の焼き流し技法によっているが、文様、形態はすこぶる古様で、渡来鐘のうち最も大形のものに造する。
慶長二年(1597)敦賀城主・大谷吉継(吉隆)が、豊臣秀吉の命により、当神社に奉納したと伝えられているが異説もある。」(平成11年11月1日 敦賀市教育委員会)

「歳月が流れ、蓮池寺は閉寺される。寺はなくなったが、鐘だけは取り残され、700年ほど長く晋州に安置してあった。それが文禄・慶長の役の第2次晋州城の戦闘の時、日本に椋奪されたのである。豊臣秀吉の家臣である大谷吉継は晋州城の戦闘に参戦した後、他の戦利品と共に鐘を日本の名古屋(名護屋?:引用者)に運んでいったようだ。大谷吉継は、蓮池寺の鐘を1597年自分の領地の常宮神社に奉納したことと知られている。
蓮池寺の鐘は、日本の国宝であるが、国宝としての管理はされていない。腐食が酷く、最近は音も正常ではない。また日本人によって墨書銘も書かれている。蓮池寺の鐘は、一介の個人の神社の隅っこの倉庫に閉じこまれ、まるで幽閉されているかのようだ。」(蓮池寺鐘還収国民運動2011『蓮池寺鐘』(広報パンフレット)より)

「渡来鐘」、確かに「渡来」したのであるが、それではまるで何事もなく日本の地にもたらされたかのようである。
こうした両者の認識の違い、隔たりを解消していくことが、何よりも大切な作業となる。

2日目の夜は、参加者の熱気に圧倒されるような「親善懇談会」。
そして3日目の午前は地元の市役所を表敬訪問したのだが、当日になって市長は急遽、ソウルに呼び出されたとのことで面会することができなかった。その昼、釜山のキムヘ空港出国ロビーのテレビは、北朝鮮国営放送のアナウンサーが総書記の死を伝えていた。


タグ:文化財返還
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