SSブログ

今福2008『ブラジルのホモ・ルーデンス』 [全方位書評]

今福 龍太 2008 『ブラジルのホモ・ルーデンス -サッカー批評原論-』月曜社

「対ブラジル戦終了直後の中田英寿の孤独を、私は直観的に理解した。チームとして横並びになってサポーターに敗戦の礼をする情報資本主義の規律と儀式をボイコットしてまで、彼が一人センターサークルに仰向けに倒れ込み、ルシオと交換したカナリア色のユニフォームで顔を隠しながら堪えていた孤独を。沈黙と涙のなかで、中田がつかのま憑依していたのは、チームプレーの実践の抑圧とともに彼が遠ざけていた、意識のブラジル人としての、孤高の美学、フチボールの遊戯性へとすべてを投げ出そうとする美学だった。そのあたりまえの美学が彼にとって孤高であるのは、ただ単純に彼がいまの日本チームでプレーせなばならないという矛盾のなせる技だった。このチームに染みついた精神的抑圧の構造を、ジーコとともに彼は放擲しようと奮闘した。中田のサッカーの魂の源泉は、ボールと純粋に戯れ対話する快楽の美学のなかにしかなかったからである。敵味方の別もないみずからの「揺らめく現在の身体」を媒介にして、Futebol-Arte(フチボール=アルチ)すなわち技芸としてのサッカーをつなぎ止めようとするブラジル人イレブンの流れるような運動体に、彼は幾度浸透していきたい、とゲームのなかで不可能な幻影を見ていたことだろう。そしてもちろん、ブラジルですらそうした身体の無限の躍動と飛翔を諦めねばならない、という瀬戸際にいることを、ジーコも中田も直観的に感じとっていた。」(189-190)

こうした文章を読むことで、あの時以来、胸にわだかまっていたものが、初めて解消されていく。言葉にならない「もやもや」したものが、言葉として提示されることではっきりと形をなしていくことの安堵感。この一点でもって、本書は私の本棚に置かれるべき存在意義を有することになる。そして本書が、かつて本ブログでも紹介した細川1989『サッカー狂い』【2006-12-27】との「兄弟本」ともいうべき存在であることを知ることとなった。

「サッカー批評は、サッカーを対象化し、サッカーを語りつつ、まさにサッカー的な批判力をサッカーを成立させる政治的・社会的な文脈への批評へと展開してゆくことで、そのまま近代の「世界」自体を語り、批判することが可能となるからだ。
現在、サッカー論を文化批評(カルチュラル・クリティーク)として行うときに要請される最低限の知的水準も、このあたりにある。サッカーを近代スポーツ競技の内部に囲い込むのではなく、近代世界とさまざまな乖離を示しつつも、近代国家原理によって巧みに占有されながら飼い慣らされ、そうした乖離を隠蔽されてきたサッカーの本性を、いま明るみに出すこと。いわば、近代国民国家原理のなかで構造化されてしまったサッカーを、より原初的な身体運動の原理によって救い出すこと。そのうえで、ひと思いに、近代世界そのものを思想的に解体してゆくこと……。「サッカー批評」が身につけるべきもっとも基本的な知的情熱は、ここにしかない。」(21-22.)

「近代国民国家のなかで構造化されてしまったサッカー」とは何か。
勝敗による決着、ルールによるゲームの文法化、得点という数学的均質性の導入、国家による競技者や競技会の占有……。

「チームを国籍によって組織するという制度に隠されたイデオロギー、勝利至上主義という概念が生まれてくる歴史性、戦術という発想が奉仕してきたほんとうの主人……。それらを徹底的に暴き出すことなくサッカーを批評することは、まったく不可能だからである。」(22-23.)

同じようなことは、考古学という場面においても、全く同様に当て嵌まることは自明であろう。
「日本考古学」というジャンル性、抜きがたい先史中心主義という傾向の歴史性、現在の日本において埋蔵文化財行政が果たしている社会経済的な意味……。
「第5章 陶酔論」として記されているサッカーにおけるあるいはスポーツ全体にとっての「ドーピング」の存在が示す歴史的、社会的、思想的な意味は、「日本考古学」の「原因者負担」というドラッグの存在との相似性を示して余りあるものがある。

「問題の核心はスポーツ選手の健康にあるのではなく、健康への阻害という当たり前な論拠をカモフラージュとして前面に出して規制しなければならないなんらかのイデオロギー的編成が、ドーピングを敵視する権力のイデオロギーの中に隠されていると考えるしかない。」(84.)

ならば「国民共有の財産」という文言を冒頭に掲げる「文保法イデオロギー」が隠し持つその真の意味を探り当てるためには、どのような道筋を辿らなければならないのだろうか。

「サッカー的情熱も、サッカー的知性も、勝利の切望と戦術への理解を通じてしか入手できないものであると、誰もが信じ込まされている……。だが人間の身体は、おそらくは数千年、あるいは数万年にさかのぼる種的・民族的な時間感覚が生み出してきた意識と肉体の均衡感覚を、まちがいなく喚び出すことのできる装置としていまだ生き続けている。そして現代のサッカーが、わずかでもそうした多層的な身体へ向けて私たちの身体意識の閉塞を解放する可能性を宿しているならば、歴史として捏造されたにすぎない勝利や戦術といった概念に、サッカーのすべてを売り渡してしまう必要はないのだ。勝利という脅迫観念と、それを目指してつくられる戦術という足枷を相対化し、判断停止の状態に追い込み、その宙づりを正しく見据えながらゲームを生きる、新たなエシックスの創造を、私たちは強く求められているのである。」(112-3.)

希望を見出すことのできない「埋文行政」、歴史主義たる第1考古学が席巻する「日本考古学」、足もとの「返還問題」を政治性を理由に目をつぶり続ける「政治性」……。
「新たなエシックスの創造」に基づく「新たな「日本考古学」の創造」が求められているのは、確かである。

「ブラジル Brasil【bra'zil】 人間の下半身のゆらぎとボールの偶然の運動性とのあいだに一つの美学を打ち立てようとする、ある精神共同体の名。あらゆる固定的イデオロギーや規則はこの符牒を旗印として戴くことで相対化され、無化される。南アメリカに位置する一国家の名称との類似は偶然の一致に過ぎない。」(巻頭頁)


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0