SSブログ

セミナー#1「文化財返還」 [セミナー]

第2考古学セミナー(第3期)#1 「文化財返還問題予行プレゼン」

日時:2011年5月18日(水) 6:30~8:00ごろ

新たな若い友人と出会い、意見を交わすことができた。
予行プレゼンに対しても、有益な意見・アドバイスを頂くことができた。
ありがたいことである。

開放/解放的で自由な討議の<場>を。
孤立する個々が出会い、抵抗の拠り所となるような<場>を。

以下にこの春、若い友人たちに贈った言葉を掲載する。

「すべて考古学的資料は、人間の思想や目的の表現体であるから、そこから思想や目的がひきだされてはじめて価値を生じる。考古学が切手集めや絵画蒐集とちがうのは、まさにこの点である。切手や絵画はそれ自体が価値をもつのに対して、考古学的資料は、それが製作者や使用者の思想や生活様式を物語る場合にだけ価値をもつのである。」
(チャイルド1969(1956)『考古学とは何か』:4.

考古学はモノを通じてヒトを探求する学問である。しかし何とマドロッコシイやり方だろう。ヒトを探求するのなら、直接ヒトを探求すればいいではないか。直接ヒトを探求するのは人類学である。ではなぜそうしたマドロッコシイやり方が見出されて、現在に至ってもなお存続しているのだろうか。それには、それ相応の理由があるはずである。一つには、直接ヒトを探求することができないヒトたちが存在するからである。すなわち「過去」に存在したヒトである。

ヒトを表わす代表的なものはモジである。モジもない「過去」はモノからしか、そのヒトに関する情報を探る手掛りがない。こうして考古学という学問、営みが誕生した。

ヒトは自らを知ることが一番難しい。なぜなら自ら以外は、見ることができるから。目にしたり耳にしたりできるのは、自分以外である。自分を見ることができるのはある限られた部分だけであり、頭の後ろとか背中とか耳の中とかは間接的に、鏡とかモニターを経由してしか見ることができない。自分の音、語る声についてもしかり。録音して聞く自分の声は何だか自分ではないようだ。これは録音機器の性能のせいではなく、音声が発せられる器官(口)とそれを聞き取る器官(耳)との構造的な相互の位置関係に起因するようだ。

考古学とは、まるで影を通して自らを知るような学問である。そこは有機質のモノが脱落するように色のないモノトーンの世界である。影絵のように似たような影の本体が全く異なるモノである場合も多々ある。私たちの姿に最も近い影が見られるのは、太陽が頭上45度ほどの角度に存在する場合である。それでも雲が少しでも覆えば影はすぐさま消えうせてしまうし、映ずる地面がでこぼこしていれば、影も歪んでしまう。夕方になり陽が傾けば、私たちの影はますます手足が細長く伸びる異様な形相となる。何十万何百万年前の人類の姿が想像できないように。反対に盛夏の真昼には太陽は頭上高く位置し、影も小さく歪んだものとなってしまう。近現代に関する考古学の存在は、あたかも存在しないかのように忘れ去られている。

影を追いかける学問。それは実体があるようでない。そして何のためにそんなことをしているのか、判りやすく説明するのがしばしば困難である。影の様相を明らかにするには、影だけを見つめていてはダメである。様々な影を数限りなく集めてみてもそれは単に「切手集め」や「絵画蒐集」と同じようなことになってしまうだろう。そのメカニズム、すなわち光源と影を発生させる本体の位置関係という全体の枠組みが認識されない限り、観察者は常に影に翻弄されるだろう。

全体の枠組み(構造)を明らかにすることで、初めて影の正体を解き明かすことができる。それは今まで見えていなかった自らを発見することである。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0