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吉村1999「東京帝国大学考古学講座の開設」 [論文時評]

吉村 日出東 1999 「東京帝国大学考古学講座の開設 -国家政策と学問研究の視座から-」『日本歴史』第608号:93-108.

「本研究の対象である帝国大学考古学講座は、「東亜考古学」を中心課題にしていた。そして研究上必要とされる調査地は考古学者自身が決定していた。考古学は調査・発掘を伴うため、十五年戦争期を背景として、その対象が「東亜」地域に及べば、大陸侵略の批判は免れないのではないか。とくに軍の保護の下で、占領地を発掘調査したならば、その侵略的な行為として研究上の責任も免れないであろう。このため考古学者の戦争責任も言及しておく。」(94.)

1916年:京都帝国大学考古学講座設置
1919年:東京帝国大学文学部改組(考古学講座設立方針決定)
1923年:関東大震災、「対支文化事業」開始
1926年:東方考古学協会設立
1927年:東亜考古学会発会
1938年:東京帝国大学考古学講座設置

なぜ東大の考古学講座は、京大の考古学講座に比べて、設置が22年も遅れたのか?
単に「震災被害」だけでは、説明がつかない。
その背景には、東亜考古学会の半島・大陸での諸活動、そして教学刷新評議会の示す国民精神作興があったことが述べられる。

「考古学講座の新設は、昭和十二年度の予算請求として神道講座の充実とともに決定されたものである。ところが実はこの時もう一つの講座の設立も認められている。それは国体学講座の新設である。これら考古学、神道、国体学の三講座は昭和十二年度予算として、第七十回帝国議会で可決された。そしてこの時の文教方針は、昭和十一年十月に答申をみた教学刷新評議会の内容に即したものであったのである。(中略)
教学刷新評議会の基本精神は、「国体・日本精神ノ真義ノ闡明」であった。そして「学問、特ニ人文ニ関スル学問ノ刷新振興ニツイテハ、日本的乃至東洋的考ヘ方ノ存スルコトヲ自覚スルヲ要ス」とされている。教学刷新評議会答申を受けて予算編成を行った第七十帝国議会で決定をみた三講座は、上の基本精神に則したものにほかならない。」(103.)

大切なのは、こうした過去の経緯を、現在を含むそれぞれの関係者がどのように評価しているか、という点である。

「原田淑人などの東亜考古学会のメンバーは、学会の活動が対支文化事業の一環から生まれた日中文化交流という意識から、活動をかなり積極的に評価している。そして文化侵略などの批判はまったく受けつけなかった。たとえば、原田は「学問の思い出」と題したインタビューで次のようなやりとりをしている。

鈴木 先生方が向こうで発掘したことに対して、おれたちの国を日本が武力を背景にして勝手に掘りやがったとかー。
原田 いやそんなことはありません。中国と合同でやりましたし、必ず中国の学者にきてもらいまして、おたがいにこういう具合で報告書も東方考古学叢刊の名前で、それにわれわれの方で報告書を出す場合は、それが出たあとで必ず忠実に発掘品を返還しておりましたし、ことに大切なものは日本へ持ってこないで、あそこで写真をとりました。決して文化侵略みたようなことしませんよ。その点で、われわれ学会は恨みを買うようなことは絶対していません。

しかし、本当に文化侵略はなかったのだろうか。すでに見てきたとおり東亜考古学会には、中国から調査に対して抗議がきていた。また軍部の宣撫工作に乗った調査は、日中戦争以降さらに顕著になっていったのである。日本の大陸調査は、文化交流の一環として当然のものであるとするところに、すでに文化侵略としての戦争責任があるのではないだろうか。」(105-6.)

最近上記引用文中の「原田発言」の箇所を含む部分が同じように引用されている論文(酒寄雅志2009「発掘調査報告書『東京城』の刊行をめぐって」『扶桑 -田村晃一先生喜寿記念論文集-(青山考古第25・26号合併号)』:445-457.)が提出されたが、両者を読み比べることで引用者の立場性の違いを読み取ることができる。


タグ:侵略 倫理
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