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植木2008『学問の暴力』 [全方位書評]

植木 哲也 2008 『学問の暴力 -アイヌ墓地はなぜあばかれたか-』 春風社

「知識の力のかなりの部分が社会的産物であると感じるようになったのは、強大な権力の行使を目の当たりにしたからというより、むしろその無力を痛感したことに始まります。大学の研究室で研究者や大学院生たちに囲まれて暮らしていれば、深い学識に敬意が払われ、すぐれた研究が賞賛され、卓抜した言説が力をもつことは当たり前に思えます。
ところが、生活のために研究室をはなれると、それらがまったく尊重されない世界があることに気づきます。このことは「大学」という名称で呼ばれる場でも同じで、研究者養成とかかわりのない一部の大学では、学生たちが学問をもとめているわけでも、講義の中身が卒業後の生活に直結するわけでもありません。とくに大学全入化の時代にあっては、「就職支援講座」や「スポーツ特待制度」は学生確保に結びついても、「学問」や「研究」にめだった効用はないと思われがちなのです。
こうした環境では、「研究のため」といった言葉はまったく非力です。せいぜい一部の人間の趣味や娯楽としか理解されません。「学問」といっても、これを認知し尊重する人々がいなければ、特段の力は持たないのです。

この非力さをいったん知ってしまうと、一部の学者や研究者たちが思いのほか強大な力を握っているように感じられてきました。特定の「研究」に莫大な予算が計上され、「専門家」の発言が傾聴され、「科学者」が一般の人の立ち入れない領域へ侵入していく。「認識」や「真理」がいつまでも哲学的議論の中心に置かれ続けているのも、そうした現象の一側面といえるでしょう。
もちろん、そこにはそれなりの理由づけが存在します。「真理」はもともと力強いものなのだと論じる人たちもいます。しかし、そうした説明だけでは納得できない力が、「学問」や「真理」や「研究」の周辺に作用しているように思われました。しだいに、この力の源を探ってみたいと思うようになりました。」(あとがき:270-1.)

こうした経緯から、「アイヌ学」に関する社会学的な研究、科学社会論と呼ばれる研究がなされることになった。
1865年:トローン、ケミック、ホワイトリによる森村・落部での盗掘
1888年:小金井良精による小樽・余市・静内・十勝・釧路などでの発掘
1924年:清野謙次による樺太栄浜での発掘
1934年:児玉作左衛門(学振第8小委員会)八雲ユーラップほかの発掘
1955年:松野正彦(北大医学部)などによる静内の発掘ほか

そして「大後頭孔損傷問題」。使用された道具、方法、施術者、目的などが実験を伴って検証された。すべてアイヌ民族に対する蔑視と偏見の産物である(三木2001【2006-9-25】も参照のこと)。ところが1969年になって突然の自説撤回、アイヌ人為説からげっ歯類損傷説へのあまりにも見事な転身である。それまで人為説を支えていたそれぞれの根拠が何の断りもなしに見事に放棄されていく。どこかで見たような光景である。

刑法上の犯罪行為である「墓暴き」から学術研究上の考古学的発掘調査への変換にあたっては、<遺跡>問題も大きく関わっていた。
「八雲ユーラップの発掘が新聞で報道されると、児玉は北海道庁の刑事課から呼び出しを受け、事情聴取を受けた。「現行墓地」からの発掘でないこと、またアイヌ側から「依頼された」発掘であることを説明したが、取り調べは厳しく、刑事課はなかなか納得しなかった。」(193.)
埋葬されて数十年の墓地を「現行墓地」ではない考古学的な「遺跡」であると強弁された。別種の<遺跡>問題である。

「児玉がそれまでの発掘を批判したもう一つの理由は、「現行墓地」の発掘という点にある。いっぽう、児玉は自分の発掘を墓地ではなく、墓地「遺跡」と形容した。英文では「放棄された墓地」(abandoned grave and cemeteries)という言い方もしている。現在も死者が葬られ、弔いの場として認知されている「墓地」からの発掘は違法だが、すでに忘れられ放棄されていれば、それは単なる「遺跡」であり、発掘に人道的問題はないという趣旨だろう。」(187.)

考古学調査を行うために方便として用いられる<遺跡>という用語。ここには何のために発掘調査を行うのかという自省的な判断が決定的に欠けている。そうした判断と密接に関連する自らの利益を中心とした独善的な認識。

「取調べ中「非常に亢奮」した刑事に、人骨への尊敬を忘れてはいけない、と説教された児玉は、「内心ムッと」しただけでなく、のちの文章でこの刑事を「私の研究内容のことなどわからなかった」愚かな人物として描きだした。そのいっぽうで協力を約束した刑事課長は「名刑事課長と信望が高かった」と賞賛している。研究に対する協力/非協力が、知/無知、有能/無能といった二分割と結びつけられているのである。同様な分割は、発掘に同意した「指導的地位にある」「先覚者」と、あくまでも反対し続ける「迷信深い故老」との対比にも見て取れる。知と無知の落差をつくり出すことで、学術研究の合法化が推し進められる様子がわかる。」(194.)

重要なのは、こうした独善的な研究姿勢はここで名前が挙げられている著名な研究者に限定されるものではなく、大多数の研究者にもある意味で共有されたものであり、それも最近まで変わることがなかったという点である。
「たとえば、1972(昭和47)年に札幌医科大学で開催された日本人類学会と日本民族学会の第26回連合大会では、アイヌ解放同盟の結城庄司らがアイヌ研究のあり方について大会参加者全員に公開質問状を提出した。二つの質問事項の要旨はおよそ以下のようになる。
一、 同大会はアイヌ民族を滅亡したものと見なすか、現に存在し滅びることを拒否しているとみなすか。
二、 そして同大会の参加者は、研究者も含めてこれまでのアイヌ民族を圧迫してきた和人に味方するのか、それともアイヌ民族の解放の側に立つものなのか。
しかし、学会はこの質問を無視し、大会委員をはじめ参加者はだれひとりとして答えようとしなかった。アイヌの古老の一人は、「学者さんの研究には魂が入っていない」と嘆いたという(新谷1977,279-88)。」(222-3.)

参加者のだれひとりとして・・・

また人類学的研究(考古学研究も同様)が抱える暗黙の前提に関する問題についても指摘されている。

「児玉は自分がアイヌ的とみなす特徴Aによって対象を選び出した。そして選ばれた人々の集団を調べ、そこにいくつかの特徴Bを見出した。しかし、このことによってアイヌ民族固有の特徴を科学的に明らかにしたと主張しても、理論的にはまったく無意味である。特徴Aを用いた根拠が明確にされなければならないからである。特徴Aが特徴Bに一致することでサンプルの適切性を裏づけたとすれば、もはやナンセンスとしか言いようがない。ここにあるのは、まったくの循環論法にほかならないのである。」(218.)

先週の記事にて水沢2010における「循環論」うんぬんが意味不明と記したが、ここでの「循環論法」は明白である。にも関わらずこうした論説が批判されることなく近年までまかり通ってきたという点に、「知の力」とその「貧困さ」を感じずにはおれない。

「学術権力は物理的な強制力としてよりも、制度的な枠組みや内面的な説得力として働く。そのために、それはしばしば「力」として認知されることなく、その作用は見逃されることになる。「真理」の名のもとに「責任」が説かれ、暗黙のうちに強制が働いても、それにしたがうことを人びとは自由で知的な判断と思い込んでしまうのである。
したがって、反対を押し切って実行された発掘よりも、表向きはアイヌの人びとの「了解」や「協力」を取り付けた研究のほうが、その外見に反してより巧妙に「知の力」を発揮していたといえる。それゆえにこそ、その力には抵抗しがたかった。和人たちがだれも表立って児玉を批判できず、しばしば賞賛し続けた背景には、こうした力の働きがあったのである。」(240.)

こうした観点から「アイヌ研究」、「北海道考古学」、「北方文化研究」を総点検する必要があるだろう。こうした作業が求められているのは、何も当該領域に止まらない。
近現代の「日本考古学」、特に「戦時期における大陸・半島の考古学」に働いている「知の社会的力」、それは2010年の現在にも及んでいることが様々な場面で確認されていくことになるだろう。


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きのこ採り

古墳を掘ることになったときもそうですが、子孫が近所に住んでいる明治ころの墓を、了解を得たとはいえ掘ることになったときは、自分の中にかなり抵抗を感じました。
by きのこ採り (2010-07-18 00:34) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

今回の書籍を読んで感じたことは、新しいとか古いといったことは二義的なことで、まず第一に「何のためにそこを掘るのか」といった自問がなされているかどうかが肝要だということです。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2010-07-18 07:42) 

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