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「キャンパスのなかの戦争遺跡」 [研究集会]

2010年度三田史学会大会シンポジウム
「キャンパスのなかの戦争遺跡 -研究・教育資源としての日吉台地下壕-」

日時:2010年6月26日(土) 13:00~16:30
場所:慶應義塾大学三田キャンパス(港区)西校舎517

<プログラム>
軍令部第三部等地下壕出入口の発掘調査成果(安藤広道)
日吉台地下壕保存の会の活動(新井揆博)
戦争遺跡研究の現状と課題(十菱駿武)
中国における日中戦争遺跡(一谷和郎)
ベルリンの地下壕 -特に総統地下壕を中心に-(神田順司)
アジア・太平洋戦争と慶應義塾(都倉武之)

「日吉台地下壕は、アジア太平洋戦争末期に帝国海軍がその中枢機能を移した施設であり、戦局の悪化に対し大日本帝国がとった軍事的活動を伝える、きわめて重要な物的証拠である。日吉キャンパス内の蝮谷一帯は、その入口施設が集中する場所であり、地形を含めた景観全体が歴史資料として意義をもつ。
そればかりでなく、日吉が軍事拠点となることで生活を一変させられた一帯の住民をはじめ、多くの仲間や家族が戦争に動員され犠牲となり、その学び舎にも致命的な打撃を蒙った慶應義塾の関係者にとって、日吉台地下壕及び蝮谷の景観は、戦争の具体的な体験の記憶をつなぎとめる、数少ない場となるはずである。つまり、日吉台地下壕は、日本近現代史研究のみならず、世代を超えたコミュニケーションの触媒となることで戦争の記憶を後世に伝えることを可能にする、高い学術的・教育的価値をもつ文化財として評価しなければならないのである。」(「日吉台地下壕に関する諮問委員会答申書」2009年1月21日より)

総延長1200メートルといわれる「連合艦隊司令部地下壕」。そして今回入口部分が検出された「軍令部第三部(情報部)・東京通信隊・航空本部地下壕、軍令部第三部退避壕、人事局地下壕、艦政本部地下壕、1944年の夏から始まったこれら地下壕の掘削に従事した人々は、その後、どのような人生を歩んだのだろうか。地下壕で無謀な特攻作戦を発令した司令部参謀たちの名前は明らかにされているが、その地下壕を掘削しコンクリートを流し込んでいた人々の名前は一人として明らかにされていない。どれだけの人々がこの壮大で愚かなモニュメント構築に従事させられ、それによって命を落とした人々はどれだけだったのだろうか。

「課題
1.戦争の記憶と戦争遺跡の保存の目的
靖国史観・英霊顕彰のためでなく、平和の維持と継承のために。加害・被害・抵抗の歴史をトータルに調べ、伝える。
2.近代史・戦争の記憶を現代へつなぐ遺産として、現代の文化観光・平和学習とまちづくりへどう活かすことができるか。日本と中国・韓国等の研究者・団体との連携。」(十菱駿武「戦争遺跡研究の現状と課題」配布資料より)

竪穴住居跡や古墳など考古学が対象とする相手、考古資料は、行政用語では「埋蔵文化財」と呼ばれ、一般的には「遺跡」と称されているが、これらは全て土地に刻まれた痕跡「土地痕跡」であることを特徴とする。それは言わば、私たちの体に残る傷跡のようなものである。好むと好まざるとにかかわらず残る様々な傷跡。それら一つ一つを見るたびに、その傷を残すに至った場面が鮮やかに思い起こされる。子供の時につけた古い傷もあれば、最近つけた生々しいものもある。それら全てが私の歴史である。

同じようにあらゆる土地には、それぞれその土地が経験してきた様々な痕跡が刻まれている。浅く微かで丁寧に掘り出さないと判らないようなものから、深く鋭く頑丈にそれこそダイナマイトで爆破しない限り取り去ることが出来ないようなものまで。
しかし私たちはその全ての傷跡を等しく扱ってきたわけではない。古い傷跡はできるだけ扱ってきた。古い傷跡は見えていたのに、何故新しい傷跡は見ようとしなかったのか。その新しい傷跡すら、もはや65年が経過している。

「もし、人間が自ら生み出した力そのものに飲み込まれてしまうような事態と、その結果生じた後遺症を扱うのが社会学の大きな課題のひとつだとするなら、戦争や環境汚染、労働災害、植民地支配などの負の記憶は、まさに社会学の大きな関心のひとつであるべきだろう。
それは、歴史的記憶をあくまで現在との関連性においてとらえることを要求する。なぜなら、社会学は「過去の意味や、過去が保存され選択される際のされ方については、過去は取り返すことができるし、未来と同じくらい仮説的である」と考えるからである。たしかに、過去に起こったできごとを物理的に変更することはできない。しかし、「過去は現出する現在の観点から、絶えず再創造され、再定式化されて、異なる過去になる」。」(荻野 昌弘2000「負の歴史的遺産の保存 -戦争・核・公害の記憶-」『歴史的環境の社会学』シリーズ環境社会学3、新曜社:216-7.)

今回の軍令部第三部あるいは連合艦隊司令部地下壕の入口部分調査において、地元埋蔵文化財行政部局は文化財保護法の対象とはしないという判断を下したとのことである。沖縄戦を始めとする戦争末期の「大日本帝国」指揮系統中枢部の所在地を「特に重要なもの」とはみなさないとしたわけである。そうした中での今回の発掘調査そしてシンポジウムの開催である。

「水俣では、水銀を多く含んだヘドロが埋め立て地のなかに埋まっている。それは、まさに文字通りの負の遺産である。そして、遺産は相続される。われわれは、遺産を抱えて生きていかざるをえない。戦争から環境問題に至るまでの20世紀の根本的な問題を負の遺産の問題として総合的に把握することは、われわれがいかなる遺産を受け継ぎながら生きているのかを知ることである。」(同:218.)

単なる「戦時期の構築物」といった「戦争遺跡」ではない。植民地本国における「戦争遺跡」すなわち「侵略戦争遺跡」であること、こうした「負の遺産」を直視できるものだけが、未来を切り開いていくことができるだろう。
私たちは、こうした傷跡、大地に深く刻まれた土地痕跡あるいは日本の大学や博物館・美術館に収蔵されている略奪文化財という「負の遺産」を「抱えて生きていかざるをえない」。
そうした「傷痕」が、日本全国そしてアジアの各地で疼(うず)いている。


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