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第7回 準備会(感想) [セミナー]

後藤 今の所は山内君でも、九州と東北地方とは古墳文化の波及が同時だとは云はないんだらう。つまり私とはその時間的開きの長さが異うといふことになるのだらう。
山内 時間の開きの差と共に縄紋式及びその以降の日本的な文化との本態、両者の交渉如何に関して殆ど全面的な見解の相違を伴ふのではないのでせうか。中央以北の縄紋式の中期以後が弥生式又は古墳時代と交渉を持ち住民が雑居して居たと云ふのと、縄紋式の終末が全国大差なく、その終末の尠少の期間にのみ弥生式の古い部分と接したと云ふのではね。」(1936「座談会 日本石器時代文化の源流と下限を語る」『ミネルヴァ』第1号:40.)

今から74年前、当時僅か34歳の少壮考古学者が、48歳の帝室博物館鑑査官から示された近似的な同意を求める申し出をキッパリと拒絶し、自らの信念を改めて表明した一シーンである。

谷口 さっきの集落の話にしても、大きな見方や問いの立て方を変えれば何を評価すべきで、何が重要なものかについてのとらえ方が変わると思いますけど。
小杉 大きな見方を無条件に前提とするような教育をわれわれは受けてきて、それを当たり前の前提とした個別の議論をやっているからなかなか変わらないんですよ。そこをいかに自覚するかが大変な作業だと思うんです。
 そこを抜け出すには、理論的なことではなくて、個別の実践の中からそれに見合うかたちでの成果を出す以外にアプローチの仕方がないのじゃないか。もちろん、理論的な議論も進められるべきだとは思いますが、やはり実践的な個別研究をそういう観点で進めることにおいてのみ、成果が蓄積されていくるのじゃないかということですね。」(2010「座談会 縄文研究の新地平を求めて」『縄文時代の考古学 12 研究の行方 -何が分からなくて何をなすべきか-』:244.)

こちらは50歳前後の研究者たちが、「研究の現状をどう理解し、また将来についてどんな展望をもっているかを語ろう」という趣旨の中での発言である。

当初縄目のついた先史時代の土器について「厚手・薄手」といった二分論がメートル(m)目盛りの物差しだったとすれば、1930年代から進められた型式編年網の整備が10cm単位の目盛りに、1990年代から進められている新地平編年が5cm単位の目盛りへと、土器を基準とした時間的スケールが「より細かに」なっていることは確かだろう。土器型式の細分とは単に「より細かに」することが目的なのではなく、「より細かに」することによって、何が新たな事柄として明らかにされたのかをそのつど確認していくことが肝要である。
例えば「E1」・「E2」というレベルでは「E1」に帰属する住居跡が3軒、「E2」の住居跡が2軒と理解されていたのが、「10a、10b、10c、11a、11b、11c1、11c2」というレベルになれば、ある住居跡は10a~10c、別の住居跡は10cのみ、他の住居跡は10b~11c1といったより複雑でかつ多様な様相が描き出されることになる。

同じようなことは、調査する範囲についても言い得る。当初はトレンチをいれて住居跡に当たった箇所のみを拡張していたのが地表面の「虫の目」レベルだとすると、等間隔に試掘グリッドをいれて面的に広げていくのが地上1mの「人の目」レベル、工業団地や水没ダム、ニュータウン建設などある地形単位や水系全体を全てめくってしまうのが地上数十mの「鳥の目」レベルである。見える範囲が広がれば広がるほど、すなわち「より広く」掘れば掘るほど、漠然と「一つの遺跡」とか「ある集落」としていた単位が、前後左右あらゆる方向にある場合には連綿と、ある場合には断続的に様々に連なっている様相が明らかになってくる。

私たちが観察できる対象が、時間的には「より細かく」、空間的には「より広く」なればなるほど、従来の枠組み、見えていた部分をそのままに受けとめていた枠組みでは、到底理解できない複雑で多様な様相が明らかになってくるだろう。ならざるを得ない。ある意味で当たり前のことである。言わば、単純そうに見えたが故に幸せだった時代、そう「無垢は失われた」(the loss of innocence.Clarke1973)のである。

ある土地に刻まれた、あらゆる痕跡が、異なる時期に刻まれた、複数の事象の累積である、複数のレイヤーを重ねた結果であるという「重複痕跡認識」が前提となって、はじめてその場所が繰り返し利用されて複数の重複痕跡が残されるに至った要因、「社会秩序とか、社会構造とか、人口密度と領域といった縄文社会の基本的な問題」、私の言葉で言えば「その<場>が交差点である所以」にもアプローチしていくことが可能となるのではないだろうか。

「・・・研究者の多くは自己の守備範囲に閉じ籠もり、心許した仲間同志のエール交換も含めて、古色蒼然たる理論を十年一日のごとく捏ね回している。他方で学際的な研究という宣伝を聞いても、その多くの実態は議論に整合性を持つ研究者の野合に過ぎず、互いの研究の褒め合いに終始するのみという状況であった。(中略)
21世紀を迎えるこの時期に、先生が逸早く気付いた重要な「忘れ物」―明快な論点で学問に裏付けされ、虚心坦懐な心情による論争の風潮―に考えがおよぶ時に、この「忘れ物」を取り戻すか否かにより、ここまで築き上げられた考古学研究がさらに進展できるか、あるいは凋落するのか、まさにその岐路に、我々が立っていることを実感する。」(中村五郎1996「わが国先史考古学の体系確立に捧げた一生」『画龍点睛』:12.)


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