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「八王子中田遺跡の再検討」 [研究集会]

「八王子中田遺跡の再検討 -古墳時代集落研究の現状を考える-」
日時:2010年3月6日 10:00~17:00
場所:八王子市市民会館
主催:東京考古談話会

基調報告-1 鶴間正昭「中田遺跡(F地区)の発掘調査成果 -2007年度の調査から-」
基調報告-2 土井義夫「古墳時代集落研究の問題点」
事例報告-1 荒井健治「武蔵国府域の古墳時代集落 -国府前夜の様相-」
事例報告-2 大西雅也「多摩丘陵を中心とした古墳時代集落の展開」
事例報告-3 小野本敦「多摩川中流域の古墳群と集落」
事例報告-4 桐生直彦「竪穴建物の構造から中田遺跡を考える」

現在携わっている業務にも関連して、初めて古墳時代関係の研究集会に参加した。

「古墳時代に限らず、集落研究が進展しない理由は、明白です。それは、私たちに与えられた基礎資料と分析方法に欠陥があったからです。」(土井義夫2010「古墳時代集落研究の問題点」『八王子中田遺跡の再検討 発表要旨』:43.)

「時代を問わず、集落研究が行き詰まり状況にあると認識している研究者は少なくない。理由はいくつか考えられるが、基本的には、集落遺跡が私たちの前に現われる場合に、時間的に累積された最終的な姿であるという、先に指摘した原則的な性格が、充分理解されてこなかったからではないだろうか。」(土井義夫1988「考古資料の性格と転換期の考古学」『歴史評論』第454号:5.) 

問題点は20年以上も以前に明確に指摘されているにも関わらず、「相変わらず」ということはいったいどういうことなのだろうか?
問題が問題として認識されていないということなのか?

東西およそ600mにわたる範囲における居住痕跡の在り方が、9つの時期に区分されて示された(『発表要旨』:17-19.)
この図を見るだけで、この場所における「集落」というものが出現、消滅、拡大、縮小、移動を繰り返している様相が見て取れる。
「弥生時代後期」には東端部に、「弥生時代終末から古墳時代初頭」には逆に西端部に、「古墳時代前期には中央部に閑散と、「古墳時代中期」にはまた西端部に、「古墳時代後期前半」には全域に、「古墳時代後期中葉」にはやや中心に、「古墳時代後期後半」にはさらに中心部に、「奈良時代」には再び全域に、「平安時代」には中心部に、といった具合に。

ここでなされている時期区分の各期の時間幅がどの程度均等なのか推し量るすべもないが、それでも大まかな変遷をたどることはできる。
そしてこれはあくまでも「中田遺跡」として現代になされた開発行為を契機として調査された特定空間(「包蔵地」)を中心にした限定的な様相に過ぎないという認識が重要である。
河川沿いに続く東西方向あるいは北側に広がると思われる当時の「水田域」の様相が明らかにされれば、さらにダイナミックな動きが現われてくるに違いない。

そしてさらに重要なのは、このことすらも「古墳時代」を中心としたある意味で限定的な「集落」の変遷に過ぎないわけで、さらに古い方向へは今回の調査によって一端が明らかにされた縄紋時代各時期の、そして未知である旧石器時代の、あるいは新しい方向へは中世そして近世、近現代の「中田遺跡」の変遷を考えれば、「遺跡地図」として示されている「固定した形状」は殆ど意味をなさない、いやむしろ研究の視野を限定する足枷でしかないことが明らかになるだろう。

もうひとつ、討論の場においても少し触れられていた「土器編年の限界」について。
これも単に「もっと詳しく分析しましょう」とか「もっと細分に努めましょう」といった問題ではなく、土器型式という遺物時間から、いかに集落景観という遺構時間を導くのか、<もの>の製作の同時性と<場>の廃棄の同時性をどのように結び付けるのか、考古学という学問が本質的に抱えるアポリアをどれだけ認識し、かつ真剣に考えられるのかが問われているのである。その点については以前「鈴木-林テーゼ」と名づけて注意を促しているのだが(五十嵐2006d「遺構論、そして考古時間論」など)、「今後いろいろと考えていかなければならない」といった曖昧な表現で片付けられてしまっているようである。

これでは、また20年後に、おなじような「再再検討」がなされて、同じような「現状を考える」ことになりはしないかと、いやなるだろう、ならざるを得ないのではないか。

「考古学とは、「場」における「もの」の存在状況、<場-もの関係>を明らかにする営為である」(同前:80.)


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