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柴田1928「史蹟と考古学」 [論文時評]

柴田常惠 1928 「史蹟と考古学」『考古学講座』第5巻:1-34. 国史講習会 雄山閣

「最近数年来、史蹟と云ふ言葉が専門家の間のみならず、広く世間に使用せられ、新聞や雑誌の上にも屡々此文字を見受くる様に為つた。従つて史蹟とは如何なるものかと云ふことは、世人にも疾く了解せられ居る筈で、今更に史蹟とは何ぞやと云ふ様なことを説明する必要なしと思はるゝが、一歩進んで史蹟の性質、範囲、種類の如きより、之れが調査の方法とか保存の計画などゝ云ふ様なことに為れば、専門家は兎に角として一般の間には左までに深く考慮されて居ない様である。」(1.)

読み進めるうちに、どうやらここで述べられている「史蹟」は、現在の「史跡」すなわち文化財保護法第109条第1項で規定されている内容とはやや異なることに気付く。

「抑々史蹟とは其文字の示す如く歴史上の遺蹟を指すもので、別に曖昧な点はないのであるが、此種のものを指すに、古い各国の地誌や名所図会の類には、古蹟または旧阯などの文字を使用し居る場合多きより、直に此等と同様の内容のものと解せられて居る様である。勿論古蹟または旧阯と云はるゝものも史蹟に属すれど、単に各国の地誌や名所図会の類に挙ぐる所の古蹟または旧阯のみに限るのではない。此等の書籍には古蹟または旧阯の外に、古城跡、古戦場、社寺跡または墳墓の類を列挙し居るものを見受くるが、此等のものを一併して史蹟と見るので、其範囲に於て著しい広狭の差がある。」(2.)

「歴史上の遺蹟」として、述べられているのは利根川から富士山までと極めて広大なものとなる。

「此故に広義に解釈すれば過去の人類の活動せる土地は、山岳河海すべてが史蹟と見ることが出来、之れを押広めて行けば大八洲の我国は其自身が史蹟なりとも云ふことに為るから、際限もなき広汎なものと為り、実際に調査を為すに当つても殆んど取留め難く、意義を為さぬ様に為つて仕舞ふ。此処に於てか今少し的確な資料を基礎とすると同時に、其範囲を局限して調査に成果あらしめねばならぬ。」(6.)

そして「文化財保護法」の前身である1919年制定「史蹟名勝天然記念物保存法」による11種類別の説明、それぞれが単独の分類では区分しきれないこと、複数の史蹟の相互関係が重要であること、異なる時代に属する史蹟が重なり合って地域の史蹟が形成されていることなどが、山城国分寺、韮山反射炉、宇治平等院、平泉毛越寺、多賀城、尾張清洲城、大和吉野山、京都嵐山などを題材として縷々説明される。

注目すべきは、単に「遺跡‐遺物」という枠組みではなく、ある意味で「遺構+遺物=遺跡」という私たちが慣れ親しんでいる図式らしきものが垣間見える点である。

「されば史蹟とは工作物なり遺品なりを存する場処で、古くは貝塚や古墳の如きより、寺跡、城跡、旧宅、廃園などに至るまで、すべて史蹟と称すべきもので、工作物や遺品の存するもの多ければ愈々其価値を増す訳なれど、旧態の儘に保存し居るが如きことは到底出来難く、要するに比較的の問題で、中には工作物のみを存して遺品と見るべきもの全く見当らざるもあれば、反対に遺品のみあつて工作物の廃滅に属せる如き場処もある。」(7.)

ここでは、いわゆる「遺構」という意味で「工作物」、「遺物」という意味で「遺品」という用語が用いられている。なんと他の箇所では、「遺構」という言葉そのものすら用いられている。
「・・・、遺構の見るべきものは隠滅し、・・・」(4.)
「・・・調査を試みて其遺構を知るに・・・」(5.)
「・・・、遺構の殆んど見るべきものなく、・・・」(8.)

「此処に云ふ所の工作物なり遺品なりを存する場処は、広義より見たる史蹟に比すれば、或地域を限つた一局部に限られ、等しく過去の人類が活動の舞台であるとは云へ、特に活動の事実を証拠立つる何物かを遺存する場処であるから、過去の人類が活動の事実の結晶せるものとも、若くは其記念碑とも云ひ得られる。」(8.)

これは、もう殆ど現在の<遺跡>概念に近づいている表現に思われる。
33年後の酒詰1961「遺跡」【2009-07-30】と比較してもより柔軟かつ実態的な認識が示されている。

そして私たちが考えなければならないのは、こうしたかつての「史蹟」論に対する現在流通している「史跡」概念の錯綜性(例えば羽賀祥二1998『史蹟論』名古屋大学出版会など)の経緯と要因についてである。

「現在では歴史学と考古学の学際的な共同研究が一層進み、文献史料とともに、史跡や遺跡・遺物を一体としてとらえることで、あらたな歴史像を形づくる試みが進められています。それぞれの時代の貴重な遺跡は、このあたらしい歴史学の実現にとって重要なものと考えられるようになりました。遺跡を日本の歴史の中に位置づけることともに、未来に伝えていくことは現代の我々の責務でもあります。」(佐藤 信・吉川弘文館「刊行のことば」『史跡で読む日本の歴史 全10巻』)

かつての「史蹟」と現在の「史跡」との異同、現在において「遺跡」を用いずに「史跡」を前面に打ち出す意図などを「日本の歴史の中に位置づけることともに、未来に伝えていくことは現代の我々の責務でもあります。」


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あきもと

ご無沙汰しております

記事の最後の3行が、ちょっと尻切れトンボになっているような感じがして、何を伝えたいのかよくわからないのですが…?
by あきもと (2009-12-19 17:44) 

五十嵐彰(伊皿木蟻化)

柴田1928で用いられている「史蹟」と羽賀1998の「史蹟」あるいは佐藤ほか2009の「史跡」では意味するところが異なるのではないか、そして「遺跡を日本の歴史の中に位置づけることともに、未来に伝えていくことは現代の我々の責務であります」と述べられているにも関わらず、なぜ『遺跡で読む日本の歴史』ではなく『史跡で読む日本の歴史』なのかといった疑問を伝えたかったのですが…
by 五十嵐彰(伊皿木蟻化) (2009-12-19 18:11) 

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