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考古学評論 [総論]

『考古学評論』といった名前の「しっかりした」雑誌があればいいなぁと常々思っていた。
隣接学問である地理学や社会学にあるような。
考古学について言えば、かつて戦時中に同名の刊行物が存在したが、こうした時代にこそ必要ではないか、と。

第1考古学は、その学的性格からして必然的に「内旋的」傾向を有する。
掘れば、何かしら新たな資料が出てくる。掘れば掘るほど、新資料は累積的に増大する。常に新たな資料を網羅し、漏れなく集成するといったことは、対象とする分野を限定しなければ適わなくなる。それすらも最近はお手上げ状態ではないか。特定の時代の特定の地域に限定し、さらには特定の遺物や遺構に限定し、といった具合に。
これは個人単位の研究主題のみならず、研究者グループでなされる研究会の内実にしても同様である。ある特定の時代の特定の遺物や遺構のみを対象としたシンポジウムや研究雑誌の数々。
こうした研究動向をレヴューする形態が、時間を追うごとに地域と時代を細分する傾向を示し、そうした細分傾向の行き着く先が諸所に欠落が目立つ不完全な動向(虫食い状態の恒常化)となる「ジャーナル動向」の現状は、当然といえば当然の帰結といえよう(本ブログ「動向の動向」【2006-06-08~16】あるいは「考古学と社会」【2008-02-28】などを参照のこと)。

それに対して、第2考古学は常により外に、より広くという「普遍化」傾向を有する。特定の遺物でいえることは、他の遺物でどうなのか、その一般的な特質とは何なのか、といった具合に。

例えば「使用痕」を考えるときに、石器のそれも利器の「使用痕」だけではなく磨石や焼礫の「使用痕」を、石器の「使用痕」だけではなく「土器」や「木器」・「金属器」などの「使用痕」を、遺物の「使用痕」だけではなく「遺構」の「使用痕」を、そして「使用痕」だけを考えるのではなく「製作痕跡」や「廃棄痕跡」をも含めた「痕跡研究」を、といった具合に(五十嵐2003d「「使用」の位相 -使用痕跡研究の前提的諸問題-」『古代』第113号参照)。

最近、ある必要があって最新の集落研究の現状を確認しようと二つの書籍を読み比べたことがあった。

「私たちはまず、縄文時代の集落論を覆う全体的な偏向を自覚的に省察してみる必要がある。「集落論」という呼び慣れた研究の枠組みから脱却し、あらゆる空間情報を駆使する「景観の考古学」へと昇華させていく意識改革が求められる。日本考古学の有利な点は、遺跡や遺物の分布状況がミクロな面でもマクロな意味でも綿密に記録されているところにある。この重厚な空間情報を活かすために、景観の考古学を理論的、方法的に成熟させなければならない。」(谷口康浩2009「縄文時代の生活空間 -「集落論」から「景観の考古学」へ-」『縄文時代の考古学 8 生活空間 -集落と遺跡群-』:4.)

「重要なのは、集落研究の枠組は、弥生・縄文あるいは古墳という特定の時代に限られない普遍性をもつべきだということである。弥生時代の集落は、少なくとも縄文・古墳という前後の時代を含む長期的視野に立って、その性格や位置づけを検討しなければならない。」(松木武彦2008「弥生時代の集落と集団」『弥生時代の考古学 8 集落から読む弥生社会』:3.)

「集落論」という「偏向」から脱却するために「景観の考古学」が唱えられているわけだが、その前になすべき議論が脱落してはいないだろうか。
すなわち「集落」と「景観」の間に入るべき「遺跡」を論じる「遺跡論」が。
思い起こせば「居住形態」と訳された「セトルメント・パターン」は、「集落間研究」であっても決して「遺跡間研究」ではなかったわけである。
そしてこうした議論について「特定の時代に限られない普遍性をもつべき」というのは当然ともいうべき言辞であるが、周りに配された諸論考からはそうした気配が殆ど感じられないのも第1考古学の弊とでも言うべきである(「小杉ほか編2007」【2007-03-02】参照)。
例えば遺構編年に関して「少なくとも連接型の一部には住居(群)ごとに出土土器様式に若干の時期差が認められる場合があるので、今後の検討を要しよう」(松木2008:8.)という一言で片付けられているが、これは立論の根幹を揺るがす問題ではないだろうか。

ということで、気が付けば本ブログ記事も500回を超えていた。
いわば「週刊 考古学評論」みたいなものである。


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