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密着思考 [総論]

「五十嵐彰は「<もの>との距離」の観点から、研究者・研究対象における「過去性」と「対物性」の2軸をもとに、考古学の諸研究の学問的位置を整理し、「離物性」こそが近現代考古学の強みと述べているが(「『日本考古学』の意味機構」『考古学という可能性 足場としての近現代』)、「もの」から離れたときにどのような意義を歴史研究として提示しうるのかという点については、より具体的な実践のなかから示す必要があるだろう。」(石神 裕之2009「近世研究の動向」『日本考古学年報』第60号:66.)

本当にこんなことしか述べていないのだろうか。
不安になって確かめてみる。

「<もの>から離れる」とは、はなはだ曖昧な物言いであるが、研究対象である<もの>と研究主体である自らがある距離を隔てて対峙することを意味する。単に離れ去るのではなく、相手に応じてその都度<もの>と自らの距離を調節していくことが肝要である。どの<もの>には近寄り、どの<もの>からは遠ざかるか、同じ<もの>に対しても、どのような場合には近づき、どのような場合には距離をおくのか、その見極めが問われている。研究対象である<もの>の種類・大きさ・数量を確かめ、相手の性格に応じて自らの立ち位置を確定していくこと、<もの>と自らの隔たりである「離接度」を測定していくことが重要となる。」(五十嵐2008a「「日本考古学」の意味機構」:23.)

「肝要」とは、「非常に大切なこと」という意である。すなわち単に「「もの」から離れた」ということではなく、「<もの>と自らの距離を調節していくこと」すなわち「「離接度」を測定していくこと」が「非常に大切」であるとしつこいほど記したのだが。

「新しい時代をも対象とする新しい考古学は、時間的隔たりに応じて、その時代における<もの>の在り方を勘案し、<もの>と自らの距離間隔を調節しつつ、<もの>を通じて<もの>を残した人々の発した声を考える。そのとき常に対象である<もの>、時間的に隔てられた他者と自らの相互関係である「離接度」が意識される。」(同:28.)

「密着思考」とは、ただ闇雲に<もの>に接近することを是とする思考方法をいう。だから「密着思考」とただ単に<もの>から離れるという在り方はかけ離れているようで、実は同じ思考形態を有している。
他方、一見同じような<もの>に接近する在り方でも、自らの「離接度」を意識しながら<もの>に接近する在り方と「密着思考」とは、決して相容れない。
私たちの<もの>に接近すればそれで良しとする考え方、こうした<もの>に対する「対し方」こそが問題だと言うのである。

贅言は要さない。師の最後の言葉を引いておこう。

「モノの研究自体は考古学における基本として全く必要ないというわけではない。ここで問題にしたいことは、日本の歴史考古学がモノの研究だけで十分であり、コトの研究は他の分野に任せておけば良いと考えているとすれば、これこそが問題だと言うのである。」(鈴木 公雄2005「歴史考古学の発達と考古学の未来」『史学』第73巻 第4号:128.)

そしてよく分からないのは、「「もの」から離れた」研究を「より具体的な実践のなかから示す」ようにという要請である。
「実践」というのは、「何かを実行すること」といったぐらいの意味であるから、「抽象的な実践」などというものは有り得ず、すべからく実践は具体的なものとならざるを得ない。であるからこの場合の「具体的」というのは「具体的な事例を用いた研究」といったような意味なのであろう。ところが「具体的な実践」すなわち「具体例を用いた研究」を「「もの」から離れた研究」において、どのように示せばいいのだろうか。「ものから離れる」というのは、「具体的な事例」から離れるということを意味するのではないのか。
もし仮に「ものから離れた実際の研究成果」を要請しているのなら、石神氏も論評中に挙げられた『近世・近現代考古学入門』という書籍において、「<遺跡>問題 -近現代考古学が浮かび上がらせるもの-」(五十嵐2007)という拙い文章が掲載されているので、ご一読頂ければ幸いである。


タグ:もの 研究
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