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山口2009「東京の遺跡立地動態の素描」 [論文時評]

山口 欧志 2009 「東京の遺跡立地動態の素描」『東京考古』第27号:1-13.

「東京都内には、数多くの遺跡が存在する。それらの遺跡は、旧石器時代から近代に至るまでの、色々の時代のものであり、過去の人々の生活の痕跡を辿るために有効な豊かな内容を含んでいる。」(1.)

何が問題なのか。
それはまず第一に「円筒モデル」に依拠しているという点である。

「円筒モデル:異なる時代・時期の<遺跡>が同一の場所に形成された場合にも、各<遺跡>範囲は常に同じ範囲に形成される。あたかも旧石器時代から現代に至るまで<遺跡>範囲が垂直に聳え立つ円筒形に限定されているかのように。」(五十嵐2005a「遺跡地図論」:103.)

「縄文の遺跡数」は3774件で、「近世の遺跡数」は1402件という(図4-1 東京の遺跡数)。
近世になれば、「江戸遺跡」とかあるいは「日野遺跡」とか「八王子遺跡」といったように<遺跡>規模が格段に増大するから<遺跡>数が半減しているのだろうか。

そうではない。むしろ都心部では、「〇〇区No.〇〇遺跡」といった具合に再開発が施工される単位ごとに「遺跡」が計上されており、極端な場合にはビル一棟の範囲で「遺跡」とされている。もちろん何十万平方メートルの広大な再開発エリアに対して一つの「遺跡」というのもある。要は、そこに何の考古学的な基準もない。あるのは開発区域に応じた「調査エリア」であり、そこに「遺跡」という名称を付しているだけなのだ。
「近世の遺跡数」が「縄文の遺跡数」の半分というのは、単に円筒モデルに依拠した総単位内において確認された「近世の痕跡」が「縄文の痕跡」の半分というのに過ぎない。
円筒モデルに依拠した<遺跡>とは、決して考古学的な<遺跡>などではなく、単なる行政的な記号、すなわち「周知の埋蔵文化財包蔵地」すなわち「包蔵地」でしかない、ということをはっきりと認識しなければならない。

「例えばAとBという二つの地点から同じようにT1、T2、T3、T4という4つの時代に属する「遺構群」・「遺物群」が検出されたとする。二つの地点を異なる別の<遺跡>とするのも、同じ一つの<遺跡>とするのも、それぞれ「折り重なる遺跡」の広がりを考慮することのない「円筒モデル」に依拠した考え方である。実際の<遺跡>は、こうした「円筒モデル」では説明が困難である。T1ではAとBは異なる<遺跡>、T2では同じ<遺跡>、T3ではAはBとは異なるがCと同じ<遺跡>、そしてBはDと同じ<遺跡>、T4ではAとBはC・D・Eと同じ<遺跡>・・・・・・といった場合には、これらの<遺跡>範囲をどのように確定するのだろうか?」(五十嵐2007a「<遺跡>問題」:247.)

いくら「モノやコトの時空間に関する情報を抽出し、それを科学する」時空間情報科学、あるいは「地理情報の取得・構築/保存・管理/分析/総合/表示・伝達などの処理作業を系統的に行なう」地理情報システムを駆使しようと、その基礎となる情報抽出単位が系統的で有意なものでなければ、そこから導き出される結論は宙に浮いたものとならざるを得ない。
まずは「遺跡とは何か」という問いを突き詰めることが何よりも重要ではないのか。

「近世では、江戸に確認されている遺跡が集中するため、遺跡が出現する標高域が限定されている。」(9.)

当たり前である。東京都内で近世の<遺跡>が調査・報告の対象となるのは、「御府内」と呼ばれる都心区域に限定されているのである。もし仮に近世の「青梅遺跡」や「五日市遺跡」が発掘調査の過程において検出されたとしても、それは行政的な指導のもと、存在しなかったことになるのである。

「近世に属する遺跡は、「江戸遺跡」及びその他の地域において特に定めるものを対象とする。「江戸遺跡」の範囲は、東京都教育委員会刊行『江戸復原図』(平成元年3月31日)による「江戸の範囲」(平成8年3月21日刊行『東京都遺跡地図』参考「御府内の範囲」に同じ)とする。」(東京都教育委員会2002『東京都埋蔵文化財事務処理要綱』:5.)

不在とされているものを存在化させること(Presencing absence)
考古学的行為の創造性(Creativity of the archaeological act)【06-05-08】

更に幾つか気付いたことを記してみよう。

「対象地域の標高の傾向」(図6)と「遺跡立地(標高)の傾向」(図7)を比較して、「低地部にみられる堆積作用や近世以降の人々による開発と利用を差し引いたとしても、旧石器時代から近世にいたるまでの遺跡は、全くランダムに遺跡を形成したのではなく、一定程度なんらかの指向性を有していた可能性を指摘できる。」(8.)と述べられている。

文意が理解できず、図6と図7から読み取る「なんらかの指向性」とは何なのか、よく判らないのだが、少なくとも図7で読み取れる標高150m付近の<遺跡>数のピークは、「多摩ニュータウン遺跡」というある意味で特異な<遺跡>認定の結果が表出しているだけと思われる。

「以下小稿では、「東京遺跡」とは東京都内の島嶼部を除く遺跡を指すこととする。」(4.)

新たな用語の提唱とも読み取れる一文である。ところが「小稿」の「以下」をいくら探索しても「東京遺跡」という用語が見当たらない。そのため「東京遺跡」の意味するところ(意図するところ)が判然としない。好意的に解釈すれば「東京都の遺跡」というぐらいの意味なのかとも推量するが、そのことをことさら述べる理由がこれまたよく判らない。少なくとも「江戸遺跡」といった用語と同レベルのものではなさそうである。

「小稿では、東京の遺跡立地動態について、GISを用いて定量的に分析を行い、旧石器時代から近世にかけての遺跡立地の変化を素描した。しかし、遺跡立地の検討は、集水域までの距離や地形・土壌・地質・古植生など、他にも多くの属性から検討する必要があり、またそれらの相関関係の時間的推移を多変量解析などを用いて明らかにしなければならない。」(13.)

まず「近世<遺跡>」とは、どのようなものなのか、現在の東京都内における<遺跡>という単位がどのような経緯で、どのような思惑で産出されているのか、その「遺跡化」の過程を明確に認識しない限り、多変量解析を用いても「ボロノイの形状」を検討しても、考古学的に有意な結論を見出すことは困難であろう。

「これを叩き台として次の研究を蓄積」(13.)されることを期待する。


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